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ひとりこの飛騨の牛蒡種(ごんぼだね)のみは、これらとはやや様子が違って、直ちに人間が人間に憑くと信ぜられているのである。(1)
[森羅万象]
2021年9月12日 19時46分の記事



『憑きもの』
怪異の民俗学1  《憑依》現象の根源を解明する
小松和彦 責任編集  河出書房新社  2000/6/1



<憑物系統に関する民族的研究――その一例として飛騨の牛蒡種――喜田貞吉>
<序論――術道の世襲と憑物系統――>
・ここに憑物系統とは、俗に狐持・犬神筋などと言われるいわゆる「物持筋」のことである。

<飛騨の牛蒡種に関する俗説――牛蒡種と天狗伝説――>
・国そのものが山間にあるところの飛騨において、しかも更にその山間のある一地方には、牛蒡種(ごんぼだね)と呼ばれる一種の系統が今も認められているという。
 由来狐憑・狸憑・犬神憑等憑物に関する迷信は広く各地に存して、その憑くものの種類は種々に違っていても、とにかくある人間に使役せられたある霊物が、他の人間に憑いて災をなすという信仰においては、ほとんど同一であるが中に、ひとりこの飛騨の牛蒡種のみは、これらとはやや様子が違って、直ちに人間が人間に憑くと信ぜられているのである。
この牛蒡種の人に恨まれると、その恨まれた人はたちまち病気になる。

・加賀の白山は言うまでもなく天狗の本場である。したがってこの事実は、この地の天狗伝説と相啓発して、いわゆる牛蒡種の性質を考える上において、最も注意すべき材料だと思う。

<牛蒡種の名義――牛蒡種と護法神――>
・これについてまず考えてみたいのは、いわゆる牛蒡種という名称である。その由来については、牛蒡の種に小さい棘があって、よく物にひっつくように、この人々は容易に他にひっ憑くから、それでこの名を得たのだと言われている。これもひと通り聞こえた説明ではあるが、自分は別に本来それが「護法胤(ごほうだね)」ではなかろうかと考えているのである。
 護法とは仏法の方の術語で、護法善神・護法天童・護法童子などの護法である。本来は、仏法を守護するもので、いわゆる梵天・帝釈・四大天王・十二神将・二十八部衆などという類、皆護法善神である。その護法善神に使役せられて、仏法護持に努める童形の神を、護法天童とも護法童子ともいう。不動明王の左右に侍する可愛らしい矜伽羅(こんがら)・制叱迦(せいたか)の二童子、その他八大童子の類、すなわちいわゆる護法童子である。

・我が国では、仏教家が地主神を多く護法神として仰いでいる。修験道の元祖たる役行者が、葛城山で鬼神を使役したというのも、やはり一種の地主神を護法に使ったのであった。今も大峯山中には、ちょっと前編に言ったように、この時業者に使役せられた鬼の子孫だと称するものが住んでいる。

・護法のことはいろいろの場合に現われている。しばしば験者の手先になって、悪魔を追い払うことなどをもつとめている。

・この外にも護法のことは古い物語や小説などに、送迎に遑ない位に多く出ている。しかしてその護法はこれを使役している人のために、しばしば第三者の身に取り憑くもので、護法に憑かれた場合には、その人は甚しく身震いするものだと信ぜられていたらしい。

・現に役行者に使役せられたという護法の鬼の子孫が、今も大峯山中に前鬼の村人として存在しているというではないか。さればこれを人事について言ってみれば、白山を擁護して破邪折伏の任務に当る祇園の犬神人(つるめそ)の如きは、身分は低いがやはり一種の護法と言って然るべきものである。しかして彼等は現にそれを使役する山門の宗徒の指揮の下に、しばしば反対者に打撃を与えるべく活躍したものであった、護法の子孫がなお祇園の犬神人のそれの如く、一種普通民と違った筋のものとして、世間から認められるということはあるそうなことである。この意味に於いて自分は、問題の牛蒡種は護法胤(ごほうだね)ではあるまいかと思うのである。

<護法祈と護法実――護法系統と憑物系統――>
・土俗の学に堪能なる柳田国男君はかつて「郷土研究」に護法童子の事を論じて、『作陽志』から美作の修験道の寺なる本山寺の、護法祈のことを引いておかれた。

・しかし護法祈は美作の山間ばかりではない。京都に遠からぬ鞍馬にも、今にそれが伝えられているのである。尤も鞍馬は京都に近い所だとはいえ、やはり極めての山間で、その東南一里半ばかりの土地には、かつて自ら鬼の子孫だと称した八瀬童子の後裔が、今も現に住んでいるところである。

・この鞍馬の護法善神社は、本堂の後右の閼迦井(あかい)の辺にあるので、地主神たる大蛇を祀ったのだとある。

<護法と天狗――天狗は一種の魔神――>
・鞍馬では右の護法堂の大蛇以外、別に天狗という名高い護法のあることを忘れてはならぬ。いわゆる魔王大僧正を始めとして、霊山坊・帝金坊・多聞坊・日輪坊・月輪坊・天実坊・静弁坊・道恵坊・蓮知坊・行珍坊以下、名もない木の葉天狗・烏天狗の末に至るまで、御眷属の護法が甚だ多いので、ひとたび足を鞍馬の境内に入れたものは、何人もたちまち天狗気分の濃厚なるを感ぜぬものはなかろう。寺伝によるといわゆる魔王大僧正は、当寺の本尊毘沙門天の化現だともある。しかし天狗はひとり毘沙門天を祀った鞍馬のみのことではなく、他の名山霊嶽にも、同類の護法の信仰は甚だ多い。しかしてこれらはやはりその他の地主神、すなわち先住民の現れと見るべきものであろうと解せられる。

・加賀の白山の天狗は鞍馬寺所伝『天狗神名記』によるに、白峰坊大僧正というとある。そしてその下には正法坊という眷属天狗の名も見えているが、無論その外にも配下の天狗達は甚だ多いに相違ない。何しろ日本の天狗界には、部類眷属合して十一万三千三百余というのであるから、後世にその名は伝えられずとも、有象無象の天狗達の各地に多かったことは言うまでもない。

<牛蒡種は護法胤――鬼の子孫と鬼筋、鬼と天狗――>
・いわゆる牛蒡種の本場なる上宝村雙六谷が、もともと護法なる天狗の棲処であったということは、果して如何なる意味であろうか。山城北部の八瀬の村人は、かつては自分で鬼の子孫であることを認めておったもので、それは村人自身の記した『八瀬記』にそう書いてあるのだから間違いない。しかしてその子孫を今に八瀬童子と呼んでいるのは、先祖の鬼を護法童子と見做しての名称であるに相違ない。彼の酒呑童子や茨城童子の「童子」という名前も、やはり鬼を護法童子と見てからの称呼であるのだ。しからば八瀬人また一の「護法胤」と見てよいのであろう。しかし鬼の子孫というものはひとりこの八瀬童子のみには限らぬ。

・我が神代の古伝説によっても、天津神系統の天孫民族は現界を掌り、国津神系統の先住民族は、幽界のことを掌ると信ぜられていた。大国主神が国土を天孫に譲り奉ったというのは、実は現界の統治権のみであって、神事幽事はやはり保留しておられたのであった。この神が医薬禁厭の元祖として伝えられているのもこれである。しかして大国主神は、一に大地主神とも言われて、実に我が国の地主神の代表者とますのである。

・勿論、地主側のものがすべて山人となったものではない。またその山人のすべてが後世鬼と言われたものではない。中には疾くに足を洗うて里人に同化し、いわゆるオオミタカラになってしまっているものが多数にあるには相違ない。

・鬼が護法であるように、天狗もまた護法なのだ。しかして飛騨の牛蒡種が、天狗の棲処なる雙六谷にその本場を有しているということは、この意味からして了解されるものではあるまいか。天狗は一の護法であると同時に、また鬼と同じく或る霊能を有して、人間に取り憑いて災いをなすことがあると信ぜられているものである。この思想は『今昔物語』を始めとして、中古の物語にはうるさいほど見えているのである。しかしてこの雙六谷の牛蒡種と呼ばれる人々が、やはり他からは人に憑くものと認められているのであってみれば、それが護法胤すなわち護法たる雙六谷の天狗の子孫として、他から認識される結果であると解して、名実共に相叶うものではあるまいか。

・元来飛騨は山奥の国であって、なお大和吉野の山中に国栖人(くすびと)と呼ばれた異俗が後までも遺っていたように、また『播磨風土記』に同国神崎郡の山中には、奈良朝初めの現実になお異属が住んでいたとあるように、ここでは中古の頃までも、未だ里人に同化しない民衆が住んでいたのであった。

・かくの如きはひとり飛騨にのみ認められるのではない。各地に同様の経過を取ったものが、けだし少からなんだに相違ない。しかるに彼此の人口ようやく増加して、これまで丸で別世界の変った人類であるかの如く考えられていたものも、だんだん境を接して住まねばならぬこととなる。狩猟や木の実の採集のみで生きていた従来の山人も、それでは食物不足とあって農耕の法を輸入する。

<霊物を使役する憑物系統――自分で憑く物と人に使われて憑く物――>
・牛蒡種の外に狐持・外道持・犬神筋等、各地その名称を異にし、また幾分その憑依の現象をも異にするものの甚だ多いことはすでに述べた。しかし実際上これら各種の憑物の間にそう著しい区別のないことは、本書に紹介した各地の報告に見ても極めて明白な事実である。ただ飛騨の牛蒡種のみは、人その物が直接に来て他人に憑依すると信ぜられ、他の憑物系統のものは、その系統の人の使役するある霊物が来て、他人に憑依するという点に於いて相違があるのみである。すなわち飛騨の牛蒡種は人その物が直ちに護法であり、普通の物持筋は、その有する護法が他に憑くという点において相違あるのみである。

<結論――憑物系統と民族問題――>
・自分の物持筋すなわち憑物系統の起原に関する解釈は右の通りで、大抵は里人たるオオミタカラが先住民に対して有する偏見に起因するものだと信じるのである。かく言えばとて彼等があえて里人とその民族を異にするという訳ではない。自分の考察するところによれば、いわゆるオオミタカラなる里人といえども、その大部分はやはり国津神を祖神と仰ぐべき先住民の子孫である。

・かの飛騨の牛蒡種の如く、一村民ことごとく憑物系統だと見られているが如きはよくよくの場合である。尤も『雪窓夜話』にも、中国のある村々は一村ことごとく犬神持だとあるように、他にもそんな例がまんざらない訳でもあるまいが、大抵は「筋」を異にしながら同じ村内に雑居して、他からアレだと排斥される場合が多いのである。

・現に出雲に於いても、村中の住民の過半が狐持であって、いわゆる白米のものは比較的少数だというのが少なくないのである。さればこれを民族的に論ずれば、本来彼此の間に何等区別のないものであって、したがってこれを疎外すべき理由は毛頭存在しないものである。

<収納論文解題  香川雅信>
<柳田國男「巫女考」(抄)>
・日本民俗学の創始者・柳田國男による日本のシャーマニズム研究である本論考は、柳田自らが編集に携わっていた日本民俗学の初の専門誌『郷土研究』に創刊号より連載されたもので、柳田にとって非常に重要な意味を持つ論考であったことが推察できる。

・この中で柳田は、飛騨の牛蒡種や蛇神・犬神といったいわゆる「憑きもの筋」の問題についても触れている。柳田は、「憑きもの筋」はかつて特殊な神を祭祀していた家系であり、信仰の零落とともに、邪悪な霊を用いて他者に害を与えると見なされるようになったと論じている。

・後に速水保孝によって、「憑きもの筋」は宗教者の家筋ではなく、江戸中期以降の貨幣経済の浸透によって急速に富を蓄積したために、村落共同体から脅威と見なされ、疎外・排斥された新興地主であったことが明らかにされるまで、こうした柳田式の「信仰の零落」による説明は長く民俗学の常識となっていた。

<喜田貞吉「憑物系統に関する民族的研究――その一例として飛騨の牛蒡種――」>
・本論分は、飛騨地方の憑きもの筋である牛蒡種を例として、憑きもの筋の起源について考察したものであるが、牛蒡種は護法胤→護法は地主神→地主神は先住民族の代表→牛蒡種は先住民族の子孫、というように、推測の上に推測を重ねることによって導き出された結論は、今日では到底受け入れがたい。しかし、憑きものと護法信仰、天狗信仰、白山信仰、鬼伝説などとの関係について考察している点など幅広い視野を持っており、示唆に富む論考である。

<酒向伸行「平安朝における憑霊現象――『もののけ』の問題を中心として――」>
・平安時代に特徴的な憑霊現象として、「もののけ」の問題が挙げられる。本論文では、平安時代における「もののけ」の憑依とそれに対する祈祷のメカニズムが、さまざまな文献の記述より明らかにされる。殊に、筆者は霊的存在の影響力である「気」に注目して日本人の霊魂観を解き明かそうとしている。

<高田衛「江戸時代の悪霊除祓師」>
・ここでは、17世紀後半を中心に多くの奇蹟を行った祐天上人と、彼が解決した下総国岡田郡羽生村の憑きもの事件が紹介されている。羽生村の事件は、後に「累」の怪談としてよく知られるようになる。

<川村邦光「狐憑きから『脳病』『神経症』へ」『幻視する近代空間』青弓社>
・本論文は、狂気に対する視線が、近代精神医学の枠組のもとでどのように変質していったのかを、さまざまな言説を分析することによって明らかにしたものである。近世において超自然の外在的な<モノ>である狐の憑依によるものとされ、それゆえ狐を心身内から排除することによって治療可能であると見なされていた狂気が、近代になって神経や脳という特定の器官の障害として内在化され、治療不可能なものとして排除の対象となっていく、というパースペクティヴの転換が鮮やかに描かれている。殊に、遺伝という新たな差別の形態が生み出されていったという指摘は注目すべきものである。

<千葉徳爾「人狐持と大狐持」>
・山陰地方は「狐持ち」と呼ばれる「憑きもの筋」の多数地帯である。「狐持ち」の発生を、江戸中期以降の貨幣経済の浸透による新興富裕層の出現と関係づけて実証したのは、1954年に刊行された速水保孝の『つきもの持ち迷信の歴史的考察』であったが、本論文はそれ以前に同様の指摘を行ったものであり、注目すべき論考となっている。さらに、家の守護神としての狐と憑きものとしての狐の二種を区別すべきこと、憑きもの信仰の地域差を地域の事情と関連づけて考えるべきこと、など教えられる所の多い論文である。

<中西裕二「動物憑依の諸相――佐渡島の憑霊信仰に関する調査中間報告――>
・従来の憑きもの研究は、「憑きもの筋」の問題、すなわち家筋を形成する憑きもの信仰の研究が主流であり、それ以外の憑きもの信仰が正面から取り上げられることは少なかった。本論文では、新潟県佐渡島の貉信仰という家筋を形成しない憑きもの信仰が、当該地域の人々の観念体系の中で考察されている。

・筆者は後に、同地域の貉憑き・生霊憑き・呪詛・死霊憑きなどさまざまな憑霊現象についての膨大な事例を紹介し分析した論文を発表している。

<波平恵美子「『いのれ・くすれ』――四国・谷の木ムラの信仰と医療体系――>
・これに対して新たに憑きもの信仰をフィールドとするようになったのは、人類学者たちであった。

・波平は、「タタリ・ツキ信仰」を民俗社会の医療体系の一端をなすものとして捉え、これまで「憑きもの筋」の問題に矮小化されがちであった憑きもの信仰を、包括的な視野の中で考えるための一つの枠組を提示したといえる。

<佐藤憲昭「『イズナ』と『イズナ使い』――K市における呪術―宗教的職能者の事例から――>
・「イズナ」は、中世の文献にもその名が見えるほど古い歴史的背景を持つ憑きものであるが、かつて柳田國男をして、「今日、いくらさがしても見当らぬほどその影は薄く、たまにあったとしても、当事者らが不思議がっている程度である」と言わしめたように、現代における事例報告はきわめて少なかった。本論文は、現代の、それも都市部における「イズナ」と「イズナ使い」に関する事例を紹介した貴重な報告である。特に本論文では、「憑きもの使い」の問題に焦点が当てられ、宗教的職能者間の社会的関係と憑きもの信仰との関係が論じられている。

<松岡悦子「キツネつきをめぐる解釈――メタファーとしての病い――>
・本論文は、ある一人の女性のキツネ憑き体験について、その語りの変遷を詳細に迫った興味深い報告である。この中で、女性自身の語りと民間治療及び精神医学の解釈が並行して記述され、それらがいずれも「分かりにくいことを具体的に把握する」ためのメタファーであり、いずれのレベルにも還元できるものではないことが主張される。

<香川雅信「登校拒否と憑きもの信仰――現代に生きる『犬神憑き』――」>
・本論文は、徳島県のある町において、登校拒否(不登校)という現代的な「病気」が、伝統的な憑きもの信仰の中で捉えられているという「逆説的な現象」について報告し、それを当該地域の医療体系や社会関係と関連させて論じたものである。憑きもの信仰を「文化的に制度化された物語発生装置」として捉え、超自然的な存在によって惹き起こされる災厄――「障り」の物語が生成される過程を明らかにしているが、いささか図式的に過ぎるきらいがある。

<昼田源四郎「狐憑きの心性史」>
・筆者は精神科の医師であるが、憑霊現象にも大きな関心を寄せており、近世のある地域社会における病い、狂気への接し方を古記録から再構成した『疫病と狐憑き』は、日本の憑霊信仰の研究において貴重な文献の一つとなっている。ここでは、人間に憑依する存在の時代的変遷について、精神医学の立場からの説明を試みている。筆者は、死霊や生霊に代わる狐をはじめとする動物霊が、近世において人間に憑依する存在として主流になってきたのは、対人関係に直接的な葛藤を持ち込むことを回避しようとする機制が働いたためだとしているが、「憑きもの筋」の問題をやや軽視しているのではないかという疑問が残る。

<高橋紳吾「都市における憑依現象――宗教観からみた日本人の精神構造――」>
・近年、民俗学・文化人類学において、憑きもの信仰はさほど人気のあるテーマとは言えず、事例報告も決して多くはない。これに対し精神医学の分野では、その空洞を埋めるように憑霊現象に関する事例報告がコンスタントに行われている。本論文もその一つであり、現代都市における憑依現象という興味深い事例が報告されている。

<仲村永徳「沖縄の憑依現象――カミダーリィとイチジャマの臨床事例から――>
・沖縄におけるカミダーリィ(巫病)とイチジャマ(生霊)という二種類の憑霊現象が報告されている。精神医学的な臨床事例の報告とともに、それらの背景となる伝承の紹介、さらに沖縄の憑霊現象の特質を社会的・文化的背景と関連させて論じるなど、本来ならば民俗学者・文化人類学者が担うべき仕事を行っており、憑霊信仰に関するものとしてきわめて良質な報告となっている。

<桂井和雄「七人みさきに就いて――土佐の資料を中心として――>
・文書によるアンケートと聞き取り調査によって、「七人みさき」と呼ばれる怪異について、土佐を中心として各地の事例を集めたもの。「七人みさき」を土佐の風土病として、医学的研究と照らし合わせてその病原体について推測した部分が特に興味深い。

<掘一郎「諸国憑物問状答」>
・この記事は、その報告の一部を掲載したものであり、九州・四国の犬神、群馬のおさきが事例として挙がっている。特に香川県三豊郡の一例は、犬神が一種の守護神として病気なおしをおこなっているという貴重な事例報告である。

<下野敏見「種子島呪術伝承」>
・モノシリと呼ばれる呪術師を中心とした、種子島の呪術伝承に関する詳細な調査報告である。犬神やカゼといった憑きもの信仰についても紹介がなされており、当地の宗教的世界観を知る上で重要な意義を持つ資料である。

<三浦秀宥「岡山のシソ(呪詛)送り>
・小松和彦は『悪霊信仰論』の中で、日本の「つき」現象は個人に限定されず、特定の社会集団や一定の土地・屋敷にも発現することを指摘し、憑きもの信仰をより広い視野の中で捉えようとした。そのような視点に立つならば、ここで紹介されている「シソ(呪詛)」は、人よりもむしろ家に憑く「憑きもの」として捉えることができる。本論文では、この「シソ」を送り出す儀礼と、その儀礼を執り行う宗教者について報告がなされている。

<浮葉正親「長野県遠山谷のコトノカミ送り――山村社会における神送りの一形態――>
・本論文は、長野県遠山谷の「コトノカミ送り」と呼ばれる年中行事の調査報告である。コトノカミ送りは、いわゆる「事八日」の習俗として、厄病神様(風邪の神)を送るという意味を持つ儀礼であるが、当地の憑き祟り信仰、殊に「クダショ」と呼ばれる憑きものに対する信仰と密接に関連している。災厄をもたらす悪しき霊に、どのような宗教的技術で対抗してきたのか、を知る上で貴重な報告である。

<憑きもの  解説    小松和彦>
・「憑きもの」という言葉は現在ではひろく世間に流布している言葉である。日常生活のなかでも、がらっと生活態度が変わったとき、「憑きものが落ちたみたいだ」などと表現することがよくある。あるいはまた、不幸なことが度重なったときに、「なにか悪い憑きものでも憑いたのかもしれないからお祓いでもしようか」などと表現することもある。そうした表現をした本人に、「その憑きものってなに?」と尋ねたとしても、きっとそれほど明確な答えが返ってこないだろう。日常のコンテキストでは、尋常ではない状態、すなわち好ましくない状態を引き起こしている霊的な存在を、漫然と指しているにすぎないからである。

・しかし、ちょっと立ち止まって「憑きもの」とはなにかを考えてみると、「乗り移った物の霊」ではあまりに漠然とし過ぎていることに気づく。たとえば、自分の住んでいるムラの氏神さまが憑いたら、それはやっぱり「憑きもの」なのだろうか。辻に立っているお地蔵さまが憑いたら、それも「憑きもの」なのだろうか。自分が堕した子どもの霊が憑いたら、それも「憑きもの」なのだろうか。裏山に住む狐が憑いたら、それも「憑きもの」なのだろうか。『源氏物語』にみえる葵上に取り憑いた六条の御息所の霊も「憑きもの」なのだろうか。そんな疑問が湧いてくるはずである。
 広義ではそれらすべてが「憑きもの」であるということができる。

・しかしながら、じつは、狭義では上述の例のほとんどが「憑きもの」に該当しないのだ。狭義の意味での「憑きもの」は広義の「憑きもの」の意味にさらにいくつかの条件が加えられているのである。
 あまり知られていないが、「憑きもの」という語は民俗学的研究のための学術用語として生み出されたものである。その研究史を簡単にたどってみる限りでは、「憑きもの」という語を学術用語として自覚的に用いようとした最初は、おそらく大正11年に刊行された喜田貞吉の編集する『民族と歴史』八巻一号「憑物研究号」であろう。それ以前に、現在と同じような意味合いで、世間あるいは知識人のあいだで用いられた形跡がないからである。その意味でこの特集は記念碑的な位置を占めている。この時期の研究を、ここでは、第一期の「憑きもの」研究期と呼びたいと思う。

・しかし、留意すべきは、この当時はまだ「憑きもの筋」という用語は存在していなかったということである。もっとも、喜田貞吉は民俗語彙としての「狐持ち」とか「牛蒡種」とともにその総称として「憑きもの筋」とほとんど同じ意味で「物持筋」とか「憑物系統」といった用語を用い、倉光清六は「憑物持」という語を用いていた。

・第二期の「憑きもの」研究は、この「憑きもの筋」に焦点をあわせた研究が中心であった。この時期の研究は、人に乗り移って害をなす「憑きもの筋」に関心を絞り込んで、それを、民俗学的あるいは社会経済史的、さらには文化人類学的に研究するというものであった。

・ところで、民俗学的な「憑きもの」研究史を紐解くとき、必ずといっていいほど、柳田國男の『巫女考』が最初に言及される。たしかに、そのなかで、喜田貞吉たちの研究に先行するかたちで、たとえば、犬神筋や蛇神筋、オサキ狐持ちについての考察がなされている。しかし、注目したいのは、柳田國男はそのとき「憑きもの」とか「憑きもの筋」という語を用いていないし、その後も、少なくとも『定本柳田國男集』の「索引」による限り、その語を用いた形跡はまったくないのだ。

・すなわち、民俗学では、研究の戦略として、民俗調査のなかから浮かび上がってきた特定の現象にかかわる神霊群を「憑きもの」と総称したのである。
すでに述べたように、「憑きもの」は、文字通りに理解すれば、「憑きもの」つまり「人などに乗り移る霊」はすべて「憑きもの」である。しかし、従来の民俗学でいう「憑きもの」はそれとは大きく異なっている。というのは、民俗学が「憑きもの」という概念を創出してくる過程で、いいかえれば「憑きもの」という言葉を貼り付けるにふさわしい「神霊」を発見する過程で、「神霊」の選別・分類がなされたからである。

・その神霊群の分類基準は、大別して三つあった。ひとつは、人間に危害を加えるために人に憑いた神霊、つまり「悪霊憑き」に限定したことである。「憑きもの」とは「悪霊」でなければならないのである。したがって、これは英語でいう憑依現象一般を指すポゼッションよりも限定されたオブセッション(悪霊憑き、妄想憑き)に相当する。柳田や喜田の視野のなかにあった「憑霊現象」は、ポゼッションであり、その下位概念としてオブセッションがあった。
 もうひとつは、「民俗誌的現在」の「悪霊憑き」に限定したことである。すなわち、民俗学者たちが調査に赴いた先の村落において遭遇もしくは伝聞した「悪霊憑き」に限定していったのである。柳田や喜田の顔のなかにあった「憑霊現象」ないし「憑きもの」は、古代から民俗学的現在に至るとても広い視野のもとでの「憑きもの」現象の考察であった。それが遠景になっていったのだ。
 いまひとつは、特定の家に飼い養われているとその地域の人たちに信じられている「憑きもの」に研究の対象を絞り上げたことである。こうした絞り込みの結果、「憑きもの筋」を形成しない「憑霊現象」を考察することが確かになっていた。

・さらに、民俗学は、明らかに民間信仰の一種である「憑きもの」に、「俗言」という特別な名称を与えて信仰から区別しようとした。好ましくない信仰、断片化した信仰というという判断によって「民間信仰」からはずしてしまったのである。

・こうした条件を満たす「憑きもの」の代表とみなされたのが、「狐憑き」「狐持ち」であった。この、具体的・地域的バリエーションが、関東地方の「オサキ狐」とか中部地方の「クダ狐」とか出雲地方の「人狐」、こうした「狐憑き」信仰に類似した動物霊憑きとして四国・東九州地方の「犬神憑き」「犬神統」、トウビョウとかナガナワとも呼ばれる九州・中国地方の「蛇神憑き」「蛇神持ち」、飛騨地方のゴンボダネと称する「生霊憑き」「生霊筋」であった。

・しかも、こうした「憑きもの」に関する基本的な情報源は、意外にも、柳田國男や喜田貞吉、倉光清六などの第一期の「憑きもの」研究期においては、郷土研究者たちからの報告も多少あったが、江戸時代の知識人たちの随筆類のなかから抽出されたものが中心を占めていた。
 江戸中期ころから、それまであまり聞くことのなかった「妖しい獣」に関する噂が、農山村部のあいだで語り出されていた。その噂が江戸の知識人たちの耳にも入り、これに興味を覚えた人たちが、その伝聞を自分の随筆に収めたり、仲間と情報を交換したりしながらその考察を行ったりしていた。

・こうした近世の知識人(プレ民俗学者)たちの記述に興味をもち、それに導かれて、柳田國男や喜田貞吉たちが、全国の郷土研究者や郷土史家に呼びかけて、こうした信仰のその後の状態をより詳しく知るための情報収集を開始したのである。そして、その集積がやがて「憑きもの」研究という民俗学の一ジャングルを形成することになったのであった。
 しかしながら、近代化の浸透によって、たとえば、淫祠邪教のたぐいの撲滅運動がさかんに知識人の手によって進められたり、社会構造や経済構造が変化したりしたこともあって、第一期の「憑きもの」研究期には、もうすでにそうした信仰のたぐいが次第に衰退に向かっていた。だが、それでもまだ戦後の高度成長期前後にあたる第二期にくらべれば、濃密なかたちで近世から続く「憑きもの」信仰が生きていた。

・そして結論として、「憑きもの筋」の成立を、ムラに定着した巫女や修験、陰陽家といった、特殊な信仰能力をもつ人たちの子孫が、信仰の衰退、零落の結果として差別されたり忌避されたりする家筋に転訛していった、という仮説を立てた。

・柳田國男は、次のように述べている。「自分の解するところでは、本来ある荒神の祭祀に任じ、宣託の有難味を深くせんがために正体をあまり秘密にしていたお陰に、一時は世間から半神半人のような尊敬を受けたこともあったが、民間仏教の逐次の普及によって、おいおいと頼む人が乏しくなって来ると、世の中と疎遠になることもほかの神主などよりも一段と一段早く、心細さのあまりにエフェソスの市民のごとく自分等ばかりで一生懸命にわが神を尊ぶから、いよいよもって邪宗門のごとく見做され、畏しかった昔の霊験談が次第に物凄まじい衣を着て世に行われることなった。これがおそらく今日のオサキ持、クダ狐持、犬神・猿神・猫神・蛇持、トウビョウ持などと称する家筋の忌み嫌われる真の由来であろう」。
 喜田の場合は、その基本的な輪郭を柳田説に求めながら、鬼の子孫=鬼筋に着目し、物持筋すなわち憑物系統の起源は里人たるオオミタカラが先住民に対して有する偏見に起因するものと解釈を打ち出した。「かく言えばとて彼等があえて里人とその民族を異にするという訳ではない。自分の考察するところによれば、いわゆる国津神を祖神と仰ぐべき先住民の子孫である。ただ彼等は早くに農民となって国家の籍帳に登録され、夙に公民権を獲得したがために自らその系統に誇って、同じ仲間の非公民を疎外するに至ったに外ならない」。とくに飛騨の牛蒡種を修験の憑り祈祷=護法憑けにおける依坐「護法実」の転訛したものではないかという説を出している点が注目される。
 
・石塚が、現地調査からようやく「憑きもの」を大文字の歴史的研究から小文字のつまり地域史的考察からその社会的機能の側面に気づいたとき、出雲の「憑きもの筋」の家に生まれ、それに由来する差別や中傷のなかで育った速水保孝が、「憑きもの筋」信仰の撲滅のために、自らの家の歴史を中心に、社会経済史的観点から非常に説得力のある実証的な「憑きもの筋」の成立・変遷論を著した。それが『憑きもの持ち迷信の歴史的考察』と、これを発展させた『出雲の迷信』である。
 速水は『出雲の迷信』の冒頭で、次のように宣言する。「狐持ち迷信といえども、歴史的産物である。しかも歴史をつくるのは人間である。したがって、われわれは、先人のつくりだした狐持ち迷信が、社会的害悪を伴うものである以上、これをみずからの手によって、消滅させねばならない責務がある。ましてや、私たち狐持ちはこの迷信の被害者である。子孫のためにも、一日もはやく、いまわしい迷信の打破をはからねばならない」。

・こうした使命のもと、丹念に史料にあたりその分析を通じて、「初めに狐憑きに指定された人々は、けっして、村の草分けではない。近世もだいぶ下って、村に入り込んできた他所者、あるいは新しい分家などの新参者で、ともに、急速に成金化した新興地主である。彼らは、草分け百姓、土着者たちから、村の秩序をみだすものとして、狐持ちというレッテルを貼られ、疎外排除された」。つまり、「近世中期以降の松江藩では、すでに寄生地主対小作人という階級対立を内に包含していた。そして、現実の事態は、村の土着的体制派農民と、新参者である外来者的反体制派地主層との、社会的緊張対立が激化という形で推移していたというのである。つまり、寄生化しつつあった地主層にたいする小作人の階級意識は、見事にすりかえられ、外来者的新興地主排斥に向けられるのである。こうして、機会あらば新興成金たちの鼻をあかそうと、虎視眈々、その機が到来するのが待たれていたのである」。そして、鼻をあかすために、出雲地方のすでに広流布していた人に取り憑いて祟りをなす狐信仰を利用して排斥に及んだというのであった。それが一時的なものではなく、特定の家筋の排斥という恒久的なものになっていったのだ、と推測している。
 たしかに、速水が分析したように、出雲の狐持ちは近世中後期の貨幣経済の浸透によってそれを背景にして新興成金化した地主側に対してなされた疎外排斥の手段として創り出された新たな共同幻想であり、いうまでもなく撲滅しなければならないのもたしかであろう。
 だが、速水の考察を読んでいて、私の視点が、速水の側と速水が糾弾する狐持ちの噂を流す草分け・小作人層の側とのあいだを揺れ動くのを否定できない。

・しかし、社会構造が「憑きもの」現象を要請しているとすれば、その社会構造の改変なくしてはそうした信仰の廃棄の可能性もありえないであろう。

・彼らのグループの調査をした時期は、ちょうど高度成長期にあたっていた。山間僻地にまで都市化・過疎化の波が押し寄せ始めていた。実際、「憑きもの」信仰は以前に比べて衰退していた。そして、やがて、都市化の荒波を受けて、ムラの社会・経済構造や価値観も大きく変化し、ほとんどの地域から「憑きもの」信仰も変容し消滅していったのであった。
 ここに至って、民俗学者や社会経済史家、社会人類学者たちによる「憑きもの筋」の研究は、対象の消滅という事実によって、ほぼ終息することになった。

<「憑きもの信仰」研究から「憑霊信仰」研究へ>
・私も「憑きもの」信仰に興味を抱いてきた。だが、それは戦後の民俗学的研究が関心を注いだ否定的な意味合いを賦与された「憑きもの筋」ではなく、「憑きもの」現象一般とさらにその根底にある人間の精神構造を理解するための手がかりを得るための素材としてであった。
 私が考えたのは「憑きもの」信仰を理解するには、民俗学のような「憑きもの筋」に限定せずに、もっと広い枠のなかに置いて考える必要があるのではないか、ということであった。「家筋」という条件、「邪悪な憑依」という条件、さらには「現代の民俗社会」という条件を取り払い、素直な気持ちで現象に向かうべきだ、と考えたのである。
 まず最初に挙げるべき重要なことは、昔から「憑依現象」(精霊憑依)と認定される現象が存在しているという事実であった。

・まず確認しておくべきことは、「憑依現象」は二つの類型に分けることができるということである。それは憑かれている本人にとって好ましい霊(善霊)の憑依と好ましくない霊(悪霊)の憑依、の二種類である。留意したいのは、人々が信じている諸霊・諸神格が、この二つに分類できるというわけではないということである。もちろん、日本人が信仰した神仏には阿弥陀や観音のように、けっして悪霊にならない善霊もあり、たとえば、第六天の魔王のように、善霊にならない悪霊もある。

・また、これとは異なるかたちで、二つに分類することもできる。それは人間に制御された憑依と制御されない憑依の二種類である。私たちがシャーマンと呼ぶ宗教者は、自分の望むときに、自分の身体や他人の身体に、善霊や悪霊を憑けることができる。ところが、そうした能力がない者の憑依は、本人の意志とは関係なく、善霊や悪霊が憑くという現象が生起する。人々が予想していない「憑依現象」が発生するわけである。
狭い意味での「憑きもの」信仰は、こうした二重分類の一角、制御されない、悪霊憑き、という部分を構成する信仰要素に属するわけである。「憑霊信仰」はそうした大きな視野のなかで考察されるべき信仰なのであろう。制御された悪霊憑き、たとえば、病人に憑いている思われる霊を確定するために、祈禱師が「依り坐(まし)」に悪霊を引き移して示現させるような状況も「憑霊信仰」であり、あるいは制御された善霊憑き、たとえば巫女が託宣を得るために楽器を鳴らしたり舞を舞ったりしながら神寄せをして神憑り、有名な寺社の神や氏神などが乗り移る状況も「憑霊信仰」であり、制御されない善霊憑き、たとえば、氏神や守護神が氏子・信者の危急を告げるために、人に乗り移って託宣をするような状況もまた「憑霊信仰」なのである。そして、そのような状況での「憑霊」も「憑きもの」とみなすべきなのである。

・その延長上に、もちろん地域差・時間差はあるが、近代西洋医学が登場し、「狐憑き」を「脳病」へ、さらには「神経病」そして「精神病」へと置き換えていく作業が展開するのである。

・しかし、こうした「進歩」観を単純に納得してしまうわけにはいかない。香川雅信や高橋紳吾の報告が物語るように、現代においても新たに生起する具体的現象の説明のために「憑きもの」が利用されたり、大都市においても憑依現象が頻発しているからである。下部構造が変化して「憑きもの筋」といった信仰は消滅しても、「憑きもの」信仰は、共同幻想が西洋合理主義的なものに取って替わられながらも、前近代的からの共同幻想も断片化・個人化しつつも現代にまで生き延びているともいえるのである。

・「託宣」はまた「神託」ともいうように、「神のお告げ」である。神が自分の意志を人に告げることが、あるいは人が神に自分たちの問いの答えを求めたその答えが、「託宣」である。この「託宣」を理解するには多くの紙面が必要である。ここはその場ではないので、必要最低限のことを述べるに留めねばならないが、前者の場合は、「憑霊」(制御されない)による託宣と「夢」による託宣が圧倒的に多かった。これに対して、後者では、「憑霊」(制御された)による宣託と道具を用いての「占い」が多かったといえるであろう。

・しかも、見逃すことができない重要な点は、病人や病んでいる社会が、こうした託宣(物語)によって癒されるということである。それは虚偽だ、捏造だ、という糾弾によっては片づけることができない文化的できごとなのである。民衆のなかに生きる「物語」は、じつはさまざまなかたちで彼らの「現実」に根をもった物語であるということができる。

・最後に、すでに言及してきたことであるが、確認の意味も込めて、こうした「憑霊信仰」の諸要素を結びつけ巧みに動かしている存在、蔭の仕掛け人ともいうべき存在に触れなければならない。それは祈祷師とか占い師とか、民間の呪術・宗教者などといった用語で表現される者たちである。かれらは、人々が「不思議」に思うこと、原因をきわめられない病気を含むさまざまな「異常な出来事」を、説明する人たちである。かれらは人々が共有するコスモロジー=共同幻想に通暁し、また個々人の歴史や社会状況も十分に調査し理解している者である。さらにまた、依頼者(病人)と共感共苦することができる者でもある。

・古代から現代に至るまで、多くの人々が、「憑霊現象」を認め、その霊の言葉に耳を傾けた。その霊のもたらす恩寵や災厄に一喜一憂してきた。日本文化のかなりの部分は、その結果生まれたものであるともいえるのである。いまさら確認するまでもないが、北野天満宮や石清水八幡宮がそうであったように、京都の有名な神社の多くが、そうした託宣=憑霊信仰の産物であった。日本文化はけっして合理的な思考のみで創られたわけではないのだ。「憑霊信仰」の衰退は同時に共同幻想の衰退を意味し、個々人の歴史・体験が大きな社会のなかに位置づけられることなく、ミクロな状況のなかで漂流しているということでもある。

・以上に述べたことを踏まえれば、従来の意味での民俗学的な狭義の「憑きもの」概念は、もはや改変・廃棄されねばならないはずである。そのうえで改めて「憑霊現象」の一角に組み込まれなければならないのである。「憑きもの筋」は「憑霊信仰」の特殊な形態に過ぎないのである。



『小さな宇宙人』  改訂版
原田正彦   学研プラス    2014/5/7



<地球人への警告の書>
・本書は地球の未来を憂えた宇宙人が著者にコンタクトして書かせた地球人への警告の書である。

・この本は。今から約15年前の1999年7月に株式会社文芸社から出版され、「日本トンデモ本大賞」にノミネートされたり、専門誌や専門家に「宇宙人に会ったという眉ツバの本は数々あるが、この本の宇宙人は本物だ。」と折り紙をつけられた物です。

・しかし、作者が全くの素人で、宇宙人の言う事をそのまま筆記したに過ぎない点もあったので、説明文が多くなって文章が冗長になり読者を飽かせてしまう部分がありました。また、この宇宙人は、歯に衣着せぬ性格ですし、彼らと地球人の常識には大きくかけ離れた点もありましたから、その考え方について地球人の反感や怒りを買い兼ねない部分もありました。
 そこでこの度、書き直して再出版する事にした次第です。しかし、これは宇宙人の実際の生活や物の考え方を書いたものですから、地球の常識とは全く違う部分があっても仕方がないのではないかということで、危険思想と思われる部分も残しました。
 従って、地球人の一部の反感を買う部分もあると思いますが、これは、全く私(というより、「他の星に住む人類の考え方が違うのが当たり前で、その「考え方の違い」を確り書いて貰うのが本の目的だ。」という指令を送って来て、私に書き換えを許さなかった宇宙人)の責任です。

・本の中に何度も書いてありますが、地球と地球人には、今、大きな危険が差し迫っています。異常気象も多発していますし東南海地震も間もなく起こるでしょう。デモも世界各地で拡大しています。それがこの本で言う天罰の前兆なのです。これにどう対処するのか?何も対処しないとか小手先の改善で済まそうとしていれば、必ず、想像を絶する天罰が下り、地球は人類の力では立ち直れない状態に追い込まれるでしょう。
 この天罰を最小限にしたい、という宇宙人の切々たる思いがこの本には書いてあります。

<20億円上げましょう>
・気が付いた時、私は、大きなドーム状の部屋の中の大きな肘掛け椅子に座っていました。部屋の中には柱がなく、柔らかな橙色の光がドームを縁取って広い空間を作り上げていました。床は若草色で芝生のようにふんわりとし、全体的に柔らかく明るいムードを醸し出していました。

・2メートルほど前に、強い橙色の光を背にして、私と同じくらいの背格好の人物が一人、こちら向きに椅子に座っていました。後ろの光がかなり強かったので、顔の造作や年齢は判りませんでしたが、法衣のような服を纏った髪の短い若い男性のように見ました。(こいつは地球の人間ではないな)と私は直観的に思いました。
「ご気分は如何ですか?」とその男は口を開きました。落ち着いた品のある流暢な日本語でした。「ええ、とても良い気分です。」と私は素直に答えました。声の調子からして、この男が私に敵意を持っていない事が判ったからです。ところが、男は突然、「2億円欲しいと言っていましたね」と不躾な質問を浴びせかけてきました。

・「いやー、お恥ずかしい。」と私は思わずペコリと頭を下げてしまいました。
「だからご褒美に、と言うわけではありませんが、私は貴方に、貴方が願を掛けた十倍のお金を上げましょう。」
「えっ、20億円ですか。」
「そうです。勿論今すぐという訳ではありません。それには一つの条件があります。その条件というのは、これから私が貴方に話すことを本に書いていただくという事です。そうすれば貴方は、貴方が願を掛けた十倍以上のお金を手にする事ができる筈です」

・「それも判っています。でも私達は貴方に書いて貰いたいのです。それは、記者や作家の方は確かに文章は上手いでしょう。でも書き慣れている為に思い付きのフィクションを入れてしまい、私達の話を忠実に伝えてくれないと思うからです。」

<貴方の運命は変えられます>
・私の返事を聞いた宇宙人は嬉しそうに頷いてから、「地球では初対面の場合、自己紹介から始めるのが礼儀でしたね。」と前置きして、「申し遅れましたが、私は『ラルシヤ2』と言います。」と名乗りました。そうして、「ラルシア2というのは、母親が『ラルレイ』という名前で、父親が『シヤリオ』という名前の2番目の子供という事です。」と説明しました、

・「この名前は母や父が考えて付けたのではなく、私達の星では、母親の名前を先に父親の名前を後にして、生まれた順番に1、2、3と付けて行くのです。そうすれば名前を聞いただけで誰と誰の間にできた第何番目の子かすぐ判るからです。」と付け加えました。

・ですから、物の影に有って直接目に見えない物や、今はそこにいないが過去にそこにあった物の映像を見る事ができます。また、相手の考えている事を正確に知る事もでき、物に触れないで物を動かす事もでき、更に、自分の考えを遠くに離れている相手に伝える事もできます。でも、地球人が『予知能力』と言っている能力は開発できていません。

<漢字は頭脳を鍛え、手先を器用にします>
・「私の名前はラルシヤ2とお教えしましたが、ここでちょっと私達の星の文字についてお話ししておきたいと思います。
 地球上には、英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語、イタリア語、ギリシャ語、アラビア語、中国語、朝鮮語と、いろいろな国語がありますね。私達はその中で日本語は一番判り易く使い易い言語だと思っています。特に振り仮名(ルビ)などという素晴らしい用法のできる外国語は何処にもありません。それが為に、便利で使い易い日本語に慣れた日本人は、使い難い外国語を使いこなすのが苦手になっています。それは日本語が悪いのではなく日本人は、使い難い外国語を使いこなすのが苦手になっています。それは日本語が悪いのではなく外国語が悪いせいですよ。
 私達の星の文字はこの日本語にとてもよく似ています。というのは、仮名に似た発音文字と漢字に似た象形・表意文字、それに振り仮名という用法もあるからです。

<地球に来ていた宇宙人>
・最後の一つが私達の星です。私達は早くからこの地球に来ていましたが、なるべく姿を見せないようにしていましたから西洋の昔話や日本のお伽噺には残っていません。私達の星のご先祖様はこっそり地球に降り立ち、これはと思う地球人の陰に隠れてその脳波に信号を送り、私達の主張を伝道して貰っていました。ただ、この日本にだけは、ある程度の人数が集団で降り立ちました。記紀に出てくる天孫降臨は私達の先祖が日本に来た時の話です。私達の先祖は此処で日本に住んでいた原住民と交合して日本人の一部になりました」

・「ええ、全く同じ生物とは言えませんが、地球人と交合できる程度に似ています。特に東洋人に良く似ています。ご先祖様が降り立つ場所として日本を選んだのも、日本が島国で他民族から侵略される危険性が少なく、純潔が保ち易いという事の他に、日本にいた原住民が私達の体型に一番似ていたからと聞いています。昔の私達の体型は、頭が大きく、背丈が低く、ちょっと猫背気味で、肌が黄色っぽく、今の地球人の美意識からすると、どう見たって格好の良いものではありませんでした。」

・2600年以上も前に、宇宙人が日本に来て、日本人に宇宙人の血が混じっているというこの奇想天外の話も、魔法使いのおばあさんや浦島太郎の話と関連して、私には本当の事のように思えて来るのでした。

<ソクラテスとプラトン>
・「身体に滑り込むなんてそんなSF映画のような真似はできません。私達星人の意見に同調してくれそうな人を選んで、その人の傍にいてその人の脳に信号を送り、私達の主張を代弁して貰っていたのです。」

・「私達の主張を地球人に伝えてくれた著名な人はソクラテスとプラトンです。」

<民主政治は、一つ間違えばこうした衆愚政治になるのです>
・次第に私生活の紊乱が私人の家庭にも蔓延して、彼らを動物の状態に引き入れるようになる。つまり、父親は息子のレベルまで落ちて息子を恐れるようになり、息子は父親と同じレベルに立って両親のいずれも尊敬しないという事になる。

<民主主義国家が滅びる日>
・宇宙人の言うように、現在の民主主義国家の都市の中には、自分の事しか考えない人間達が引き起こす殺人、強盗、強姦、恐喝、引ったくりが横行し、人間が夜一人で出歩けない危険な場所が沢山あります。宇宙人の言う民主主義社会の滅亡する日はすぐそこに来ているのかも知れません。

<地球の崩壊する日>
・「地球も地球上の動植物も、宇宙創造の神が、研究に研究を重ね、精魂込めて作り上げた物なのです。」

・確かに地球では、果てしなく都市が拡大し、樹木は伐採され、地球のメカニズムも維持に重要な動植物は減る一方で、水も空気も汚れ、地球のバリアであるオゾン層にも穴が開いて、地球が本来の自浄機能を果たせなくなっています。宇宙人の言う『地球が崩壊する日』も間近なのかも知れません。

<蚊の役割を知っていますか>
・大自然の中には、人知の及ばない細かい工夫が沢山あります。それを一つ一つ研究して行けば、私達は、私達には計り知る事もできない神の知恵の深さに驚嘆し、その素晴らしさに感動すると共に、神の作られたこの地球や地球上の動植物を、何一つ無駄にはしてはならないという事が判るのです。」
 宇宙人の話は、常に神の存在とその偉大さを感じさせるものでした。

<天罰>
・ですから神様は、今までにいろいろな方法で地球人の数を減らそうとしています。私達の知る範囲では、先ず、地震・津波とか洪水とか火山の噴火という天災で無造作に数を減らそうとしました。しかし、山野型の天災では余り地球人の数を減らす事ができず、むしろ他の動物に大きな被害が出てしまいましたので、神は、これからは山野型の天災は止めて、大都市を狙った洪水や直下型地震を起こすと共に、ひょっとすると大都市の真ん中に火山を噴出させるというような事をするかも知れません。
 神が取った次の手段は、コレラとかペストとかチフスといった疫病を流行らせる事でした。この疫病によって多くの地球人が死にました。しかし、なまじっか頭脳の発達している地球人は、これに対抗する薬を作り出して疫病を鎮めました。そこで神は、より対処し難い梅毒のようなスピロヘータを送り込みました。地球人繁殖能力を減退させようとしたのです。しかし、これに対しても、地球人は一応の防御策を見つけ出しました。

・それは、私達の考えでは、これらの病原菌やスピロヘータに、地球人の作った薬に対抗する抗体力を付け、もっともっと強力な物にして再挑戦させるとか、もっと新しい強力なウイルスを作り出して地球人に挑戦しようとしているのだと思います。ですから、地球人の病気との闘いはこれからが本番です。

・ですから神は地球人同士に戦争をさせました。増加する地球人の数に比例するように、部族同士の戦いから国家間の争い、国家間の戦いから同盟を結んで連合で戦う世界戦争へとその規模をエスカレートさせ、増え過ぎた地球人の削減を図ったのです。

<やがて携帯用核爆弾がテロリストの手に渡るでしょう。>
・そこで神は、核爆弾を使うような戦争が起こらないように、東西の対立を緩和しました。そうして、他の生物に影響を与えず、地球人だけを減らす事にしたのです。
 それが前に言ったような新型のウイルスだと私達は考えています。そうして、地球人が今の生活を改め、地球全体の事を考え、自ら人口を抑制する方策を取らなければ、神は、更に治療の難しい新型ウイルスを次々に送り込んで地球人の削減を図るでしょう。
 そうして、それでも効果がないと判った時、神は思い切って地球を破壊する決心をすると思います。それが『天罰』です。その手段は、恐らく核爆弾の爆発です。

・ご存じのように、他の動物は、記憶力だけしか持っていませんから、経験によって危険や快感を記憶し、その記憶によって危険を避ける行動や快感を求める行動をするのですが、神は、私達のご先祖となった猿に、特別に、物を考えたり、想像したり、先を読む事のできる能力を持たせたのです。そうしてこの猿に、もし神の作った星のメカニズムが崩れるような事があったら、それを修復して貰おうと考えられたのです。これは、私達の星と、後でお話しするダラハン星では上手く行きましたが、ワガナイ星では上手く行きませんでした。神は、ワガナイ星人や地球人が、星のメカニズムを保つどころか、自ら星の秩序を破壊する様になろうとは思ってもみなかったのです。

・私達は、このままでは、地球にワガナイ星と同じような天罰が下ると思っています。

<バミューダ海峡の怪>
・「世界七不思議の中に、魔のデルタ地帯とかバミューダ海峡の怪と言われるものがありますね。バミューダ海峡を通る船や飛行機が時々忽然と消えてしまうというやつです。あれは実は私達星人が関係しているのです。」

<地球人の理想像>
・地球人は、子孫の為、人類の為、地球の将来の為に、子供達を金儲けの妄想から解放してやるべきです。

<宇宙人の理想像>
・私達の星では、理想像は細かい所まではっきりと決まっています。それは、神が星人に与えてくれた能力を最大限に発揮し、星のメカニズムを守り、星を何時までも美しく保って、星に住む全ての動植物と共に楽しく明るく生きて行けるようにするには、星人達が如何なる資質を持ち、何をしなければならないか、如何なる生き方をしなければならないかという事を星人一人一人の身に付けさせる為のものです。これは、幼児にも判るように平易な文章で本にされています。

<性技教室>
・「今の話を聞いていて、貴方が『えっ』と思った事が三つあったでしょう。一つは、理想像の資質の中に『男性は性技が上手く、女性にもてる事。』という項目があった事と、二つ目は、『体力がなくなり、他の足手纏いになると思った時は自ら命を絶つ事。』という項目があった事。そして三つ目は、『年齢別テストの結果、一定のレベルに達していない者は抹殺される。』という星の規則があるというところです。これらは地球の常識と著しく相違していますから、これについて、少し詳しく説明しましょう。

・また、地球上の多くの先進国は、近年、公式の性処理場をなくしてしまいましたから、若者の旺盛な性欲を処理したり性技を教える所がなくなってしまいました。赤線があった頃、先輩達は、童貞の年下の若者を筆下ろしの為に赤線に連れて行って性を教えました。遠い昔(江戸時代)には、父親が童貞の息子を連れて遊郭に行き、遊女に筆下ろしを頼んだりする事もありました。

・ですから、私達の星には『性技教室』というものがあります。この教室は、優秀な資質を持つ男性の性技の向上を図る事が主な目的です。独身の男性の性欲を処理する事と、夫を失った女性の性欲を処理する事にも役立っています。この性技教室は、星人の優秀な種の保存と向上に大きな役割を果たしていますので、これについて少し詳しくお話ししましょう。
 性技教室は各街に六ヵ所ずつあります。各教室の先生は、その街で性技のベテランと称される比較的年配の男性2〜3人と、夫に先立たれて性技教室の先生になる事を希望した2000人ほどの女性から成っています。生徒は原則として子孫を残すに足る一定の資格を備えた独身の男性ですが、既婚者でも長く妻と離れて暮らしている者と、セックスがしっくりいかない夫婦は生徒になる事ができます。」

・「私達の星では、今の地球のように、性を罪悪視したり恥ずかしいものと考える風習がありませんから、優秀な種の繁栄に役立つならばと、殆どの夫を亡くした女性が先生になる事を希望します。」

・「女性の性技教室はありません。私達の研究では、女性は余り早くからセックスを体験すると、局部的な感度は兎も角として、性に対する精神的な部分での発育が止まってしまい、男性としっくり結合のできない性格になってしまう事が判っています。」

<高速ワイヤー鉄道という乗物>
・「地球にあるロープウェーと鉄道を一緒にしたような物と思って下さい。ただ、その構造には、根本的に幾つかの違いがあります。先ず第一に、本線の軌道は、工場のある街を経線方向に結んで、街や工場より更に50メートル下の平均水面下100メートルのトンネル内を走っている点です。」

<小さくなれば、豊かになります>
・「ところで、貴方は先ほど、『地球人の半分にも満たない身体しかない。』と言われましたが、最初の頃には『背格好も地球人と交合できる程度に似ている。』と言われたように記憶しているのですが、私の聞き違いでしょうか?と私は聞きました。というのは、今、私の前に座っている宇宙人は、私と殆ど変わらない背格好をしているからです。
「ええ、確かに、私達のご先祖様が盛んに地球に来ていた2500年くらい前までは、私達も地球人と変わらない体格をしていました。でも、今では地球人の半分もありません。」

・「でも、今、私の前にいる貴方は、私と殆ど変わらない体格をしているじゃーありませんか。」と私は言いました。
「それは、今貴方の前に座っている私は本物の私ではなく立体映像だからです。何故、立体映像になっているのかと言いますと、身体の小さな本物の私を見ると、貴方が私を見くびって、私の話を真剣に聞いてくれないからです。」

・私達の星では先ず人口を減らす方法を取りました。その方法と言うのが、『星人として一定の体力、知力、実行力。徳操を身に付けていない者は抹殺する。』という適正テストの実施と、『ほんの少しでも悪いことをした者は死刑にする。』という厳罰主義と、『普通の人は60歳に達したら人生に終止符を打つ。』という人生定年制です。この結果、星人の知力、体力、行動力、徳操が飛躍的に向上し、犯罪も激減すると共に人口も減少しました。でもこれは一時的な現象で、星の人口はまた徐々に増加し始めたのです。何故かと言いますと、適性テストを通過した優秀な男女の遺伝により、テストに引っ掛かる者が少なくなり、犯罪を犯して死刑になる者も殆どいなくなったからです。

・地球人の身長も半分になれば、狭い狭いと嘆いている住宅も一挙に4倍の広さの豪邸に変わります。飢餓問題も立ちどころに解決するでしょう。

<地中に移した街>
・「私達の街が全て地中にあるという事は既にお話ししましたね。そうして街も工場も真円形をしていて、その下を拘束ワイヤー鉄道の加減塔が回っている事もお話ししました。」

・この調理場を取り巻く幅800メートルの輪が食堂になっています。食堂の面積は、約530万平米で、一度に500万人が食事をする事ができます。

・食堂の外側の幅800メートルの輪が集会場です。此処には、学校や研究所や工作室を含む教育施設と、医療施設、それに劇場と図書館と若者達の合宿所があります。性技教室も此処にあります。此処にある研究設備や工作機械等は地球上のどの研究所や精密工場も遠く及ばない高等な物です。

・「地下農園や地下牧場は、街から地上に出る通路の途中にあります。地上に出る通路は、一つの街に6本あり、各通路に一ヵ所ずつ農園または牧場があります。」

<50年後の地球は>
・「お話ししたい事はまだまだ沢山ありますが、お説教じみた話ばかりしていると地球人に嫌われてしまいそうなので、私の話はこのくらいにして最後に一つだけ質問させて下さい。」と宇宙人は言いました。
「現在の状況のまま、何も手を打たないでいたら100年後の地球はどうなっていると思いますか?」
「そう、恐らく宇宙に存在しないか、存在しても生物の住めない星になっているでしょうね。」と、すっかり宇宙人に感化されている私は答えました。

・「前にもお話ししましたが、50年後(2024年)の地球の人口は、地球の食糧自給能力の限界に近い90億人に達しています。100億人にはまだ多少余裕があるように見えますが、先進諸国が資力に任せて食糧を買いあさり、その20%を残飯として廃棄していることから、飢餓状態にある人口は発展途上国を中心に5億人くらいになっているでしょう。この為、貧富の差の激しい国々で始まっているデモや暴動は、テロリストの扇動もあって更に激しさを加え、2020年頃には中国、ロシア、韓国等に広がっている可能性があります。そうすると、農民の多くが暴動に参加して農業や酪農を放棄しますから食糧不足は更に深刻化します。
 そうして、世界的食糧危機の脅威にやっと気づいた先進諸国は食糧の備蓄に努めるようになります。食糧を輸出していたアメリカやオーストラリアのような農業国や酪農国は輸出するのを止めてしまいます。中国は内乱の為、野菜等の輸出はできないでしょう。そうなると、食糧の自給能力のない国は、何処からも食糧を輸入することができなくなり直ちに飢餓に襲われるようになります。海の魚だって取り尽くされてしまいます。50年後は今と変わらないだろうなどという考えは甘っちょろいのです。」と宇宙人は私を睨みつけんばかりに言いました。

・「変に誤解されると困るのですが」と前置きして、
「人口を減らす為にできるのは、ワガナイ星の場合のように、戦争か、疫病の流行か、天災の増加でしょうね。疫病の流行と天災は、神が増え過ぎる動物の数を抑制する為に考え出された方法ですから、宇宙にいるどの生物が飢餓の状態になっても必ず現れる現象ですし、戦争は、今までの地球の歴史を見ますと食糧や物資が不足した時に必ず起きています。地球人もワガナイ星人と同じように、自分が窮する力ずくで他人の物を奪おうとしますからね。」と言いました。そうして、「でも、これからの戦争は、今までの戦争と全く様相を異にしたものになると思います。と言いますのは、『天罰』のところでもお話ししましたように、心ない国の作り出した核兵器がテロリストの手に渡り、その使用が起爆剤となって本格的な核戦争が起きる可能性が高いからです。この核戦争をどの時点で食い止められるかによって、地球が存続するか消滅するかが決まるのです。私達はこの戦争の勃発するのは、地球人の数が、地球で供給できる食糧の限界を超える2030年〜2035年頃になるのではないかと予測しています。
 神は、何時も、その動物の数が許容できる限界を超えそうになると、大量にその数を抑制しようとされますからね。」
「その戦争が起きないようにする事はできないのですか?」
「勿論できますよ。起爆剤となるテロや暴動が起きないようにするには、先ず飢餓をなくす事です。先進国の人達が、飢餓に苦しむ人のいる国から食糧を買い取る事を止めて、反対に自分達の食糧を分けてやる事です。勿論、絶対量が足りないのですからそれだけでは飢餓はなくなりません。各国の指導的立場にある人達が現状を確りと認識して、地球的規模で今から食糧の増産に踏み切る事と、人口増加の著しい発展途上国の人達に働きかけて、産児制限を徹底させて人口の増加に歯止めをかけなければいけません。
 それから先進国の地球人も、お得意の『そんなに慌てなくてもいずれ何とかなるさ。』という安易な考えを捨てて、本気で指導者に協力しなければなりません。皆が地球の将来を考えて、力を合わせて根本的な改革に取り組めば馬鹿げた戦争は起きませんし、50年はおろか、100年後も200年後も地球は安泰です。」

・現に今、地球上では全ての犯罪を総合すると、1日に200人以上の人が殺され、2万人以上の人が暴力によって傷つき、20数万人の人が、恐喝や強盗やひったくりやスリの被害に遭っているのです。そうして、この犯罪数は、年々8%ずつも増加していますから、50年後には1日に9400人が殺され、94万人の人が傷つけられ、1173万人の人が盗難等に遭う事になるのです。これは実に、その時の地球の人口の0.13%に当たります。という事は、50年後には、全ての地球人は、2年に1度は物を盗まれるか、傷つけられるか、或いは殺されるという事になるのです。これにテロや暴動が起こる事を想定すれば、被害はこの十倍にもなります。これが地獄でなくて何でしょう。

・近く襲って来るであろう食糧不足と、テロや核戦争の脅威と、経済機能の崩壊と、疫病の大流行と、大規模天災の頻発と、地獄絵のような犯罪社会の出現。地球の将来はお先真っ暗なのに、政治家は大道政治をせずに国民に諂って票を集める事に没頭し、経営者は公益性を無視して金儲けに専念し、マスコミは将来に目を向ける事なく目先の出来事を興味本位に書き立て、大衆もまた、先の事など考えずに刹那の快楽や利得にうつつを抜かしています。この太平楽の中で、地球は今、刻一刻と死期に近付いているのです。

・今の地球には、国際社会におけるリーダーの座を奪われまいと、地球上の全ての生物を20回も皆殺しにできる膨大な核兵器を蓄えている国があります。大量の核兵器を管理する事ができずに、核兵器の部品を垂れ流している国があります。国際社会に脅威を与え、存在感を高めるために核爆弾を持とうと躍起になって開発に取り組んでいる国があります。経済封鎖の為に貧困に追い込まれた国が、閉鎖を決めた国々に核爆弾を打ち込もうと大量の核爆弾の製造を企てています。核を手に入れて各国の首都を破壊しようと企んでいるテロ集団があります。
 
・貴方は、賛同者と一緒に、全生涯を掛けて地球の後継者を育成して下さい。私達は陰ながら貴方を見守っています。貴方達が今立ち上がらないと、50年後の地球はワガナイ星のような地獄の星になり、100年後には宇宙に存在しなくなるのです。
 私はこれから一旦私の星に帰り、60年後(2034年)に再び地球に来ます。その時に地球がどのように変わっているか、怖いような、期待できるような複雑な気持ちです。私達が大勢の地球人の中から、貴方を選んだ事が間違いでなかったと思えるようになって欲しいと思います。」と言って、宇宙人は私の目を確りと見据え、
「長い間聞いて下さって有難う。立派な本ができる事を祈っています。」と、右手を差し伸べてきました。私は、その手を両手で確りと握り締めました。宇宙人の手は、10歳か、12歳くらいの子供の手のような小さいものでしたが、掌が固く力強いものでした。
「さようなら、判らない事があったら目を瞑って西の空に向かって質問して下さい。遠隔伝心力は時間と空間を超えて意思が疎通できますから。」と、宇宙人は握っていた手に力を込めました。そうして、
「60年後にまた会いましょう。さようなら。」ともう一度言って手を離しました。すると、テレビのスイッチを切ったように、プツンと宇宙人の姿は私の前から消えました。



『プレアデス星訪問記』
上平剛史  たま出版   2009/3



<UFOに招かれる>
<宇宙太子との再会>
・それは、私が故郷である岩手県に住んでいた16歳のときのことである。

<葉巻型巨大宇宙船へ>
・「葉巻型母船は長さ4キロメートル以上で、太さは一番太いところで、直径7、8百メートル以上あります」
                     
・「この母船はひとつの都市機能を持っており、ありとあらゆるものが備わっています。生き物のような船であると言っても過言ではないでしょう」

・なんと、これでも中規模程度の母船らしい。10キロメートル、20キロメートル、さらにそれ以上の大きさの地球人類には想像もできないほどの巨大な母船も存在するという。この母船では縦横およそ50メートルおきに道路が設けられ、階層は最も厚いところで40〜50層になっているそうである。母船の中に公園や山河まであるらしい。この母船で生まれ育ち、一生を過ごす者もいるそうである。

・宇宙人にはそれぞれ母星があるが、母船には母星の都市機能が備わっており、母星の社会がそのまま存在している。母船の惑星としての役目を果たすため母船が故郷となる者もいて、そういった者は、ある意味で、母星で暮らしている人間よりも精神的に進化しているらしい。

・「この母船には我々プレアデス星人だけでなく、様々な星人が協力のために同乗しています。地球人類がグレイと呼んでいる宇宙人もいます。もっともグレイは我々が遺伝子工学、バイオ化学、宇宙科学を駆使して造ったロボットでしたが、今では宇宙や特定の星の調査など、さまざまな分野で活躍しています。他にも爬虫類、鳥類、魚類、昆虫、植物などの生態から進化した人間もいます」

・「この母船は、最大収容能力は5千人ですが、現在は4千人くらいでしょう。ただ、乗せるだけならば、1万人は乗せられるでしょうが、常時生活して長く滞在するとなると5千人が限度です。食料やその他の問題がありますからね。この母船には、ここで生まれた子供たちを教育する係もちゃんといるのですよ。子供達が大きくなれば、母星の学校や他の進んだ星へ留学する場合もあります」

・UFO研究家で有名な韮澤潤一郎氏も「微に入り細に入る教訓的宇宙オデッセイであり、近頃には珍しい詳細な本物の体験記であると思う」と記している。

・だれしも、ある時夢での宇宙をさまよったこともあるのだろうが、本書によって、しばし宇宙旅行を楽しまれることをおすすめする。

<惑星化された母船内部>
・私は船長に言われたとおりに宇宙太子に従い、自走機で艦内を案内してもらった。艦内のどこを回っても、光源がないのに真昼のように明るい。壁全体から光が出ているようだが、影は映らなかった。小型宇宙船の駐機場、公園、スポーツクラブ、談話室、宇宙パノラマ室、図書館、レストラン、健康クラブ、プライベートルームなどを早足で回った。駐機場にはざっと数えただけで宇宙船が30機以上あり、宇宙太子に聞くと、「全部で100機あるでしょう」ということであった。

・公園は中央の中段上にあり、綺麗に整備されていた。樹木や草花が咲き乱れ、とてもいい芳香を放っている。植物の色合いはとても濃く、元気である。自然の中に小川が流れ、散策路やベンチがあった。歩くと心が癒される素晴らしい公園に作られていた。ここからさらに農場や150メートルほどの山岳に連なっており、まさに自然そのものが存在していた。

・「プレアデス星人は、現在では本を使いません。家にいながら世界中のことを見たり、知ったりできるからです。子供達が勉強するのにも本は使いません。年齢によって脳に知識を植えつけていくシステムがありますから、記憶装置を使ってどんどん知識を増やしていけます。子供達はやがて自分の得意分野へと進んでいき、個性を活かした社会奉仕へと向かっていくのですよ」

<すべてをリサイクルするシステム>
・続いて、プライベートルームに案内された。ここは寝室のある個室で、寝泊まりができるらしい。石鹸やシャンプーを使わないため風呂場はなく、シャワールームのようになっていた。そこで霧状のシャワーを浴びるだけだが、波動の加わった特殊な水なので、肌の油や垢がきれいに洗い流されるのだという。トイレは私たちのよく見るような便器ではなく、シャワールームの壁側にある人形の凹みに腰かけるようになっていた。私もためしに用を足してみたが、用が終るとその思いを感知するらしく、終ったあとのお尻に気持ちのいい温風が流れて乾かしてくれる。そのあとは軽やかな音楽が流れ、香水の香りが漂った。あまりにも不思議だったので、私は宇宙太子に質問してみた。
「大便や小便の始末はどうなっているのですか。それから、おならのガスはどうなるのですか」
「大便や小便は完全に分類し、利用しています。宇宙生活ではすべての物を再利用するシステムが完全に備わっており、ムダになる物はひとつもありません。おならのガスだけでなく、我々が呼吸で吐き出す炭酸ガスも空調システムで完全に集めて分類し、活かしているのですよ。循環システムが完全に稼働しているために、我々は星で生活しているような錯覚さえ起こすのです。母船は星と都市の機能を備えているのです」

・私がさらに驚いたのは洗面台である。歯ブラシを使って歯を磨いたり、カミソリでヒゲを剃ったりする習慣はないのだという。壁側に顔形の凹みがあり、そこに顔を当てると顔が洗われ、ヒゲもきれいに剃れるのだ。その装置の中のちょうど口にあたる部分には出っ張りがあり、それをくわえると口の中がきれいに洗浄されるのである。
「この装置はどういうシステムになっているのですか」
「ヒゲは、簡単に言えば特殊な電気でヒゲだけをきれいに焼いてしまうのです。顔の皮膚は火傷しないようにそれとは違う電気システムを使っています」
「皮膚が焼けないシステムといっても、睫や眉毛、髪の毛はどうなるのですか」
「もっともな疑問点です。我々の装置は人間の思考を感じ取って、人間の思い通りに働いてくれる完璧なシステムに作られています。ですから、本人がすることを完全にこなしてくれるわけで、髪の毛や、眉毛、睫まで焼いてしまうということはないのです。念のため、システムの中に髪の毛、眉毛、睫、ヒゲのサンプルを入れて記憶させていますから、完全に区別できます。このように、百パーセント安全なシステムでなければ、日常生活に使用しないですよ」

・「地球にあるほとんどの食物は、実はその昔、我々の祖先がプレアデスから持っていったものが多いのですよ。地球で生活するために持っていったものが地球で野生化したり、地球人が改良を加えたり、混ざり合ったりして、新種ができて今日に至っています」

・「人工太陽も利用しますが、自然の太陽の光を天井から農場まで引いて照射しているのですよ。太陽の光と熱を貯蔵して利用し、効率よくしています。また、成長ホルモンをコントロールして高単位の栄養を与え、成長を速めているのです」

<プレアデス人の宇宙科学>
<中心都市の宇宙空港>
・映像パネルに宇宙図が現れた。その中に、ひときわ美しく、金色に輝く星が見えた。星々の流れがシャワーのように後に流れはじめると、金色の星が少しづつ大きくなった。ゴルフボールから野球のボールの大きさへ、それがサッカーボール、アドバルーン大、と大きくなった。すると、星の両側に巨大な太陽が見え、まぶしき輝くの見えた。私の驚きを感じて、船長が言った。
「我々の母星は伴星の恒星にしたがっている惑星です。双星の太陽の源に我々の母星「プレアデスX?」は育まれ、多種多様な生命が発生しました。宇宙の進化の目的にしたがって我々は成長を遂げ、現在の宇宙科学を駆使できるまでに進化を遂げたのです。」

・船長が命令すると、母船はプレアデスX?へぐんぐん近づいて行き、青く輝いていた大気圏に一気に突入し、丸く見えていた惑星に山脈や青い海が見えると、スピードがゆるやかになった。それからゆっくり降下し地表に近づくにつれて、都市の形状がはっきりしてきた。透明の丸いドームが大小延々と連なっており、それらが透明の太いパイプで連結されているのが見えた。
 宇宙空港は都市郊外の山脈近くにあった。さまざまな宇宙船がそれぞれの着陸場所に降り立ち、駐機していた。葉巻型宇宙母船が台のような構造物でしっかりと固定され、何十機と駐機している。私達の乗る母船も船長の指令により、ひとつの台に降り立った。その台はやがて山脈のほうへ向かって動き出し、中へと吸い込まれていった。山脈の中は空洞で、母船と同じく光源がなくても真昼のように明るい。

・地球人類が滅亡へ向かう根本原因は、社会の基本に貨幣制度を敷き、競争社会を造っていることです。我々の社会には貨幣制度は存在しません。貨幣がなくても、『必要な人が、必要な物を、必要なときに、必要なときに、必要な分だけ受けられる社会』が確立されています。『真に平等で平和な社会』です。したがって、地球人類が『真に平等で平和な社会』を心から願うのであれば、現在の貨幣経済から一日も早く脱却しなければならないでしょう。

・「これは手品や魔術ではなく、私の思念、創造の産物です。『思考は目に見えないが、生きた産物であり、精神は感応する』という性質を、私達は宇宙科学に応用したのです。宇宙ジャンプ、テレポート、非物質化、物質化現象を応用することで、光よりも速く飛べる宇宙船を開発できました。ですから、光の速さなら何百年、何千年、何万年もかかる距離でも、宇宙船は瞬く間に目的地に着けるのですよ」

・地球人類と私達の社会では、人が亡くなったときの処理の方法も違います。街には必要と思われる箇所に『平安の屋形』という小さな家が設けられています。そこには『やすらぎの器』という遺体処理機が置かれています。これは遺体を記録し、完全処理する機械です。ある人が道で倒れたりした場合、通りすがりの人間がその人を平安の屋形に運び、やすらぎの器に乗せてあげます。機械は霊魂が昇天しているかどうかを判断し、まだ死亡していなければ生存していることを知らせ、どこへ連れて行くべきかの指示を出します。そこで遺体の発見者は、指示されたところへ自走機で連れて行きます。誰もが必ず連絡先の書かれたカードかチップを携行しているので、それを見て家族へ連絡します。

<愛の奉仕活動を基本とする社会>
<工業都市ミールの宇宙船製造工場>
・宇宙太子が「さあ、出かけましょう」と私をうながした。彼は私を自走機に乗せ、館内を見せてくれた。パブリックホールにはさまざまな星人、人種がおり、楽しそうにくつろいでいた。宇宙太子が「あれはオリオン人、あちらはシリウス人、むこうはアンドロメダ人、それからリラ人、カシオペア人、牡牛座人、ヘルクレス人、レチクル人、リゲル人………」などと教えてくれたが、とても覚え切れるものではなかった。
「みなさん、それぞれの目的のもとに我が母星を訪問しているのです。研修や宇宙旅行の途中に立ち寄ったり、剛史と同じような目的だったり、宇宙人連合の会議に出席するためだったりします。今、私がそれぞれを紹介しましたが、地球人の星座を使って、地球人にわかる形で表現しただけで、実際には違う名称です。我々の科学も本当はピクス科学といいますが、地球人にわかりやすいように、プレアデスという名称を使っています」

・彼らは顔や体形にそれぞれ特徴があった。目立ったのは、鳥、爬虫類、牛などの特徴を持った人間である。
「彼らもまた、進化した人間なのですね」
「もちろんそうです。科学力においては、地球人類よりはるかに進化を遂げています。顔がヒューマノイド形でないからと言って、見下げるのは誤っています。科学力において進歩しているということは、精神面においても進化していると思っていいでしょう。知恵と精神面の発達はとても重要で、その人類の生きかた、社会のありかたを決定づけます。地球人類の社会に争いや戦争が絶えないのは、精神面がとても遅れていると見なければなりません」

・自走機で小型宇宙船が駐機している屋上まで行き、そこから小型宇宙船で工業都市へ向かった。宇宙船が上昇したので都市全体を見渡すと、各ドームがいっせいに美しいカラフルな色に変色した。

・工業都市ミールは先ほどの首府アーラとは違い、透明なピラミッド形の建物が多かった。その他に箱形やドーム状のものも点在するこの都市も、たとえようがないほど美しかった。山脈に続く一角にはさまざまな宇宙船が並んでおり、宇宙船はこの工業都市で製造されていることがひと目でわかった。
「工業都市は他にもありますが、宇宙船は主にこの都市で製造しています。工業都市にはそれぞれ特徴があって、宇宙船だけでなく、あるとあらゆる機械、ロボット、コンピューター、設備関係、家庭で使う小物の道具類まで、我々の社会に必要なものはすべてが製造され、そこら全国へ配送されます。すべて国の管理により、必要に応じて製造され、ムダなく使用されます。地球人類のように会社が競争して、必要以上に製造してムダにする社会とは違います。『必要な人が、必要な物を、必要なときに、必要な分だけ受けられる社会』、『誰もが平等に平和に暮らせる社会』が確立しているため、人よりも物を蓄えようという物質欲ははるか昔になくなっているのです。我々の社会では『人に与えることが自分の幸福』なのです」

<過去にも未来にも行ける>
・「過去は実際にあった現実ですから、ある程度理解できます。でも、まだ現実になっていない未来をどうしてとらえられるのか、僕にはわかりません。先ほどの『さくらんぼ娘』にしても、まだ生まれてもいないし、両親は結婚さえもしていないわけでしょう。それなのに、どうして次元に入れるのでしょう。アカシックレコードは過去の記録でしょう。
「もっともな疑問ですね。この世に物質が誕生するとき、その物質にはその物質の一生が記録されています。ですから、人間ならば、その人の肉体と霊魂をさぐれば、その人の未来も知ることができるのです。つまり、この宇宙の物はすべて未来の記録を発しているわけです。実を言えば、過去も未来も今、ここに存在しているのです。過去に遡れるのなら、未来にも遡れるのですよ。遡ると言うより、『その次元に入り込む』と言ったほうが正しいかもしれません。地球人類的に言うならタイムマシンですね。

<大規模農場アースナムの『ミルクの木』>
・「農作業はほとんど機械とロボットが行い、人間は管理だけをしています。ここでは地下が倉庫になっており、コンピューター管理によって運営されています。ここから地下の流通路を通って都市から都市へ、必要なところへ必要な分だけが配送されていくシステムです。個人が自分の趣味でやっている園芸農園もあるのですよ」

<海洋都市アクーナ>
<自然環境と調和する都市>
・小型円盤でしばらく飛行すると、海岸線に添うように、丸い形の家がたくさん見えてきた。もう着いたのかと思ったが、円盤は沿岸の街へは下りず、海へ向かった。その海を見下ろすと、海中がまるで宝石でもばら撒いたように光り輝いていた。宇宙太子は「ここが海洋都市アクーナです。入りますよ」と言うと、そのまま円盤を操作して海へ突っ込んでしまった。海中を進むと、ラッパのような構造物があった。円盤はその先端の大きな口の中へと入って進み、やがて巨大なドーム状のプールに浮かび出た。まわりにたくさんの円盤が並んでいる駐機場がある。そこは、海洋都市アクーナのプール港ステーションだった。
 私達は自走機に乗って都市を回り、ひときわ立派なドームにたどり着いた。

<知識はレコ−ディングマシンで脳に記憶>
・「地球人類は学問的知識を覚えるのに、もっぱら暗記力に頼るようですが、我々の社会ではそのような苦労はしません。先ほども言いましたが、脳に記憶を植えつけ、脳に知識をレコーディングしていきます。年齢別にレコーディングの種類、最も決められています。そのために、図書館にはあらゆる分野の知識がつまったチップがそろっています。チップをレコーディングマシンにはめて、知識を脳に流し込んでやるだけで、物理なら物理の知識が記憶されます」

・初めて会った子供達が、流暢な日本語で挨拶したので驚いてしまった。
「みなさんこんにちは。歓迎してくれてどうもありがとう。みなさん、日本語がうまいですね、どこで覚えたのですか」
 彼らはいっせいに言った。
「レコーディングマシンで覚えたのです。私達はみんなこれで知識を蓄えるのですよ」
「みなさんは今、僕と初めて会ったのに、僕を知っているようだけど、どうしてかな」
「私達はレコーディングマシンで何でも知ることができるのです。レコーディングマシンを使えばわからないものはありません。わからないとすれば、この世を創造した神様がどこから来たのかということぐらいでしょう。それに、私達の脳は地球人と違って、近くにいる相手の意識が伝わって来るのです。だから、剛史が地球から来たことがすぐにわかったのです。魂の進化を遂げた私達の脳は、受信、発信ができる便利な脳に発達しています。そのおかげで、脳による意識と意識だけのテレパシー会話ができるほどに能が発達しました。神の方向性に向かって、神に近づくように進化し続けているのです」
 彼らはまるで子供らしからぬ説明を、日常会話でもしゃべるように話した。私は、こんな小さな子供達が地球の大人以上の認識で話すのを聞いて、プレアデス人の進化の度合いは半端なものではないと感じ取った。

<進化した子供たちとの会話>
・「プレアデスでも突発的な事故による怪我や病気、手足の骨折もたまには起きます。でも、今のプレアデスの医学ではほとんどの病気や怪我は完全に治ります。地球の病院でも治療は、拒否反応やアレルギーが起きたり、病巣を体に残したり、醜い疵跡や後遺症が残ったりといったことが多々見受けられますが、そのような治療は一切していません。ただ、プレアデスにも老衰はあります。老衰死はどの星人にもありますから、避けて通れません。そのために、老後に安心して死を迎えられるように、老人達が自分の意思で自由に出入りできる老人憩いのホームを作って、楽しい生活を送れるようにしているのです。病院と老人の施設は同じ場所にあり、両方の施設はつながっています」

<地球への帰還>
<5千人を収容できる円盤型巨大母船>
・私達はパブリックホールで休憩をとった。ここもたくさんの星人と人種でいっぱいだった。空いたテーブルを見つけて陣取ると、私を残してクレオパと他のプレアデス人達は飲物をとりに行った。周囲には明らかに地球人と思われる顔が見かけられた。アジア系、ヨーロッパ系、アフリカ系、ロシア系、アメリカ系、ラテン系など、さまざまな人種の顔が異星人に混じって談笑していて、中には明らかに日本人と思われる者もいた。この星へ来るときの葉巻型母船でもそうだったが、自分以外にも日本人は来ているのかもしれないと私は思った。やがて、クレオパ達が飲物を手に戻って来た。クレオパはグラスを私に差し出し、隣に座った。
「剛史、どうぞこれを飲んでください。さっき、剛史が思ったことはその通りなのですよ」
「えっ、何のことですか」
「この母船には地球人は剛史だけではないということです。そしてまた、地球人と同じ系の種は、他の星にもたくさんあるということです。したがって、モンゴロイド系も他の星にたくさん存在しているのです。たしか、今回はもう一人M・M氏が乗っていると思います」

・地球人類の科学では光がもっとも速く、それ以上の物はないという認識ですが、プレアデスの基本的科学では『光よりも速く進み、光よりも速く飛ぶ科学技術』が常識です。私達はそれをすべて自然から学びました。この世のこと、あの世のこと、すべての問題、それに対する答えも自然の中に隠されているのです」

・私は自走機に乗り、艦内を走り回った。この円盤型巨大母船は直径約2.5キロメートル、中心のいちばん高いところで、最高6百〜8百メートルくらいの高さがあり、母船全体の階は何十層にもなっている。各部屋の天井の高さは3メートルくらいで、ここでも壁全体が発光していた。円盤の中心には、とても太い円柱が上から下まで通っている。それが自然エネルギーを吸収し、有用なエネルギーや必要な物質に変える装置であり、母船の心臓部であるらしい。その中心から十字形に巨大通路があり、30〜50メートルおきに、輪状に約10メートル幅の通路が通っているので、艦内が自在に回れるのである。部屋と設備は、ほとんど葉巻型母船と同じだったが、人工農場、人工養殖池、公園、山岳はとくに注目に値するものであった。

<クリーエネルギーの星と核戦争で滅んだ星>
・クレオパが「これからSRX星を少し覗いてみましょう」と言って、母船の運動を緩めると、ある星の上で停止させた。「この星は爬虫類から知的生命体に進化した星です」との説明だった。クレオパが母船に指示を与えると、画面に映っていた星がどんどん拡大し、やがて地上の都市らしきものが見えはじめた。お椀を伏せたような建物が点在し、そこから人間らしき生命体が出入りしているのが映しだされてきた。ある一組のカップルに焦点が合わされると、顔や姿がはっきり見えた。二人は向き合って話し合っている様子なのだが、奇妙なことにおたがいに舌を出し合い、ペロペロと舐め合っていた。肌には鱗状のものが見えた。

・SRX星人は母系家族で、一夫一婦制ではありません。子供が4年でひとり立ちすると父親である男性は去り、母親はまた新しい男性を捜すのです。そして、おたがいに愛が芽生えれば、母親はまた子作りをします。その点、とても進歩した社会体系を確立しているようです。男性も女性も、おたがいにひとりの人間に縛られないというのは、とても素晴らしいことだと思います。

・クレオパが母船を自動操舵に切り替えると、ふたたび母船は宇宙ジャンプをしながら進んでいった。SRX星人の舐め合う赤紫の舌が、なぜか私の目に強烈な印象として残った。しばらくしてクレオパが「核戦争によって生物が滅亡したキロSX星を、参考のために見ておきましょう」と、母船をある星の上に停止させた。画面で星を拡大していくと、都市の残骸が少し見えたが、あたりはほとんどが荒涼たる砂漠と化していて、生物の姿は見あたらなかった。星全体がガスのようなもので覆われている。その不気味な静寂に、いいしれぬ悲しさが感じられた。
「この星は核戦争によって、全都市が破壊されました。そして、戦争を起こした種族だけでなく、その他の全生命も滅亡してしまったのです。今は強力な核の放射能によって覆われているので、とても危険で近づけません。もはや生態系はこわれ、生命の住めない、死んだ星になってしまったのです」



『宇宙太子との遭遇』    上平剛史作品集
上平剛史  たま出版   2009/12



<宇宙太子(エンバー)との遭遇>
<御家倉山(おやくらやま)での出遭い>
・宇宙船は私のほぼ真上までくると滞空した。やがて、グリーンの光の帯が降りてきたかと思うと、その光に乗って、『ひとりの人間のような者』が、地上へ降りてきた。そして私と30メートルほどはなれて降りたった。髪は美しい栗色で、肩のあたりまであり、きれいにカールされていた。目は青く澄み、美しく整った顔は、神々しさをたたえて、ニッコリと微笑んでいる。黄金色の柔らかな絹のジャンプスーツのようなものを着ており、腰にはベルトのようなものが巻かれていた。私には、天使か神様かが地上に降り立ったかのように思えた。私が驚いたまま、じっとその存在を見つめていると、相手は静かに口を開いた。日本語だった。「やあ、剛史君、初めまして。いつか、のろさんが話したことのある宇宙太子というのが私です。よろしく。今日、ここへ君を来させたのは、私が呼んだのですよ」

<「昔から御家倉山(おやくらやま)には天狗が出ると言われていたから、それは天狗だべ」>
<未来>
・ちなみに、我々、プレアデス星人は6次元から7次元のレベルにあります。あなた方から我々の科学を見ると、進歩の度合が高すぎて神がかっているように思われるようですが、この宇宙には我々にも分からないことがまだたくさんあるのですよ。ていねいに調査しても、まだ宇宙のほんの一部分しかわかっていないのです。さあ時間がないから先を急ぎましょう。次は東京です。

・前と同じように、画面に日本地図が現れ、宇宙船の現在地が示され、赤い点がするするっと東京の位置まで伸びてとまった。また、一瞬思考が止まったような感覚と、かすかになにかをくぐり抜けたような体感があった。わずか数分のことである。赤かった印がきれいなピンク色に変わると、やがて正面の画面に東京の街並みが映し出された。

・しかし、それは今までのビル群とは明らかにちがっていた。全体がガラスかプラスチックのような透明な建物で、ピラミッド型や丸いものが多かった。レールも、煙を吐きながら走る汽車もなかった。車も従来の車輪がついたものではなく、浮きながら滑るように走っていた。窓へ駆け寄って下を見ると、やはり、それは画面に映っている光景だった。皇居と思われる画面が映し出された。が、そこに皇居はなく、人々の憩いの公園となっており、だれもが自由に出入りしていた。

・私は、びっくりして、「まさか、未来の・・・・」とつぶやいた。
「剛史、よく気がついたね。そう、これが日本の未来です。日本という国はなくなり、世界連邦のひとつの州になっているのです。世界連邦においては、もはやお金は必要なくなったのです。地球人類も少しは進歩したようですね」



『北の大地に宇宙太子が降りてきた』
上平剛史  たま出版   2004/6



・著者は、昭和16年生まれ、岩手県浪打村(浪打峠に「末の松山」のある所で有名)出身。

<大いなるもの>
・目には見えない極微極小の世界から、波動によって織りなされて、物質は発現してきているのである。すなわち、「この世」に「大いなるもの」によって、発現されたものは、全て感性を持っているのであり、「大いなるもの」は、波動によって段階的に次元をつくりながら息吹によって気を起こし、自分を発現していったのである。

<貨幣経済の廃止>
・国は、歳入不足に陥ると、すぐに国債を発行して、帳尻を合わせる。国民からの借金で、目先をしのぐのである。その国債には利払いが発生し、その利払いが大変な額になって毎年のしかかり、利払いのためにも赤字国債を発行しなければならなくなる。そのため、赤字国債は雪だるま式に巨大な額となり、ついには元金の返済は不可能という事態に陥る。その地点を「ポイント・オブ・ノーリターン」という。

・日本はすでに、ポイント・オブ・ノーリターンを超えてしまった。超えてはならない線を越えてしまったのである。

・ポイント・オブ・ノーリターンを超えているのに、日本は自衛隊をイラクに派遣し、赤字国債乱発で得たお金をそれに使う。

・国内には経済問題による生活困窮者が激増しその結果、借金苦や事業の行き詰まりから自殺する人達が増加したのである。

・日本は国家予算の使い方を抜本的に考え直さなければならない。従来の予算の使い方を隅から隅まで洗いなおして、何が無駄に使われて、何が有効的だったかを、はっきりさせなければならない。

<宇宙連合>
<宇宙太子からのメッセージ>
・地球人類よりもはるかに進化した星人により組織されている宇宙連合の仲間(オリオン人、シリウス人、アンドロメダ人、リラ人、カシオペア人、牡牛座人、ヘルクレス人、レチクル人、リゲル人・・・・)に加わってください。

・人類が宇宙連合に到達したならば、宇宙考古学により、地球人類のルーツが、明らかになるでしょう。そして、宇宙に飛び出すことに力を集中してください。私も宇宙連合もいまかいまかと人類を待っているのです。

・人類の英知を科学の進歩、医学の進歩、文化の進歩に総結集したならば、人類は星間宇宙旅行のできるスペースマンにまで進化し、地球人類よりもはるかに進化した異星人たちによる宇宙連合の仲間入りを果たすことができる。

・進んだ星人(宇宙人)は、すでに宇宙と生命の原理を解明していて、神の領域にまで到達し、星から星へ瞬時に宇宙のどこへでも意のままに行けるシステムを開発している。その驚くべきシステムは新しいエネルギーの発見と、その利用の仕方に負うものであり、地球人類は、新エネルギーの発見と利用については、あまりにも遅れすぎているのである。

<「あの世」と「この世」>
・「大いなるもの」は、波動によってさまざまな次元をつくりながら、この大宇宙を創造し発現させている。
「この世」の裏側には「あの世」があり、「あの世」の裏側には「この世」がある。その認識は正しいのだが、「この世」と「あの世」は、異なった次元に同時に存在しているともいえる。
その「この世」と「あの世」も「大いなるもの」が波動によって発現させたものである。
「あの世」が普通の人間に見えないのは、その次元を普通の人間の感覚器官がレシーブできないからである。波動の違いによって見えないだけなのである。

・進化した星人、宇宙人においては、貨幣経済というものはなく「誰もが平等に平和に暮らせる社会」は、人類が誕生する以前から確立されていた。その後に誕生した地球人類は進化した星人に追いつけないばかりか、いまだに自然を破壊しながら、戦争ばかりを繰り返している。

<そんな感傷の日々を送っていたある日、突然、私に宇宙太子が降りられ、私に「宇宙の法」を授けられたのである>



『「捨て子」たちの民俗学』  小泉八雲と柳田國男
  大塚英志   角川学芸出版    2006/12



<異常心理と伝承>
<「山人」の発見と近代化の手続き>
・眼前の犯罪と古代の信仰を結びつけるハーンの犯罪民俗学的ともいえる思考は、柳田國男によっても繰り返される。冒頭に二つの殺人事件、そして仮説としては古代の先住民族をめぐる論考の双方が『山の人生』の中に配されたのは、やはりハーンと同じ思考に基づくものとしてあった。だが、柳田の中では「犯罪」と古代の信仰、ないしは民俗との関わりはより明瞭に方法化される。その思考の過程を『山の人生』の中に見ておくこととする。

・柳田國男は自らの山人論の集大成である『山の人生』に於いて、明治40年代に執着した山人実在説を放棄している。すなわち、記紀の時代の先住民が山間部にはわずかながら生き永らえていて、それを里の者が畏怖し伝承化したのが「山人」であるという仮説である。

・柳田が山人実在説に執着しなくなったのはそのような動機が一応は後退していったことが大きい。従って『山の人生』で主張されるのは山人の生存ではなく、むしろ滅亡である。

・『山人考』に於いて柳田は「山人すなわち日本の先住民は、もはや絶滅した」と述べ、その多くは「討死」「断絶」したものと、「同化」「併合」「混淆」の二つに大別されるとし、その上でわずかに「或る時代まで」はそれでも一部は少し前までは生存していたと一応は旧説も主張する。しかし、一方で「永い歳月の間に、人しれず土着しかつ混淆したもの」が「数においてはこれが一番多い」とも記す。つまり、柳田の関心は生存説よりも同化説の方に大きくシフトしている。そのことは『山人考』の結末に示された、「我々の血」の中に「若干の荒い山人の血」が混じっている、という主張の中にはっきりと見てとれる。

・だが、ここで柳田が「血」といっているのは決して単に人種的混淆の事実を比喩的に指摘するにとどまるものではない。今の我々は「血」や「遺伝」をただ比喩的に文化現象に当てはめることに慣れているが、しかし、それはある時期までは「比喩」ではなく科学的記述であり、実体を伴うものとしてなされたことを忘れてはならない。そして柳田は起源の民俗学から「心の遺伝説」を引きずったままであることは既に見てきた。「伝承」という文化形式を支えるのは「心の遺伝」という科学的根拠なのである。

<山人の「血」の証し>
・それでは『山の人生』に於いて主張される「山人」の「血」の証しとは具体的にどのように顕在化するものなのか。
『山の人生』は冒頭の山中に於ける殺人事件の話から一転し、山中を漂白するサンカ、山中に遁世した武人、そして「産後に発狂」して山に走り込んだ女たちの話を経て、柳田の神隠し体験の告白へと事例が推移する。この神隠し体験の記述は冒頭の殺人事件の記述とともにあまりに有名で、『山の人生』という書物の印象は殆どこの突出した二種類の挿話によって成り立ってしまっていると言ってよい。だが殺人事件と神隠し体験はそもそもいかなる論理で結びつくのか。



『怪異を魅せる』    怪異の時空2
飯倉義之、一柳廣孝  青弓社  2016/12/1



<『子どもと怪異』>
<――松谷みよ子『死の国からのバトン』を考える
三浦正雄 / 馬見塚昭久>

・『死の国からのバトン』(偕成社)、は、『ふたりのイーダ』(講談社)などとともに、松谷みよ子が20年以上の歳月をかけて完成させた「直樹とゆう子の物語」5部作のなかの1冊である。5部作それぞれに直樹とゆう子が登場するものの、1作1作は完結した物語になっている。
 この5部作は、社会問題を扱った「告発の児童文学」として知られるが、実はもう一つの大きな特色がある。いずれも題材として怪異が取り入れられているのである。特に『死の国からのバトン』は、タイトルのとおり、主人公の直樹が死の国へ赴き、バトンを託されて帰還するという物語で、いわば現代の冥界訪問記である。

・向日性や理想主義から脱却し、多様性に富んだテーマを扱うようになった日本児童文学であるが、今日でもなお、本作品は特異な存在である。タイトルに「死」という言葉を使うこと自体がまれであるうえ、その内容も死んだはずの祖先と子孫が交流するという特異な題材を描いたもので、ひときわ異彩を放っている。特異な作品でありながら、従来、その点はあまり注目されてこなかったようである。

・また、西田良子の「松谷みよ子論」は、本作品に通じる<根>として、<幼児的心性>と、<古代人的感覚>を探り当てた点で卓越している。だが、「松谷文学の特質である<幼児的心性>は、ややもすると、過度の幼児語使用となったり、<古代人的感覚>が時には呪術的迷信をも伝えてしまう危険性をもっている」とも語っていて、必ずしも肯定的に受け止めてはいない。筆者は「古代人的感覚」こそ、現代児童文学に最も必要な要素の一つであると考えるのであるが、西田はこれを「迷信」のひと事で切り捨ててしまっている。

・では、なぜ松谷はこの作品を書いたのだろうか。公害の告発が主目的ならば、わざわざ「死の国」をその舞台に設定する必要はなかったはずである。実社会の被害状況をリアルに描いたほうが、はるかに訴求力のある作品になっただろう。作者の強い思いが込められているのではないだろうか。ここでは本作品の時代背景を探り、怪異の仕組みをひもときながら、作品に秘められた松谷の思いに耳を傾けてみたい。

<ムーブメントの交差点>
<公害告発の文学>
・まず、「公害」という視点から、物語の時代背景を探ってみよう。本作品には、各地に伝わる伝説や民間信仰が複合的に組み込まれており、作中に描かれた公害は、阿陀野川に有害物質が流されて発生したという設定である。阿陀野川は松谷による架空の名称だが、昭和電工がメチル水銀を流し続けた阿賀野川を連想させる響きである。本文中には、「やがての、それがおさまると、ねこらは、目をうつろにみひらき、よだれを流し、足を引きつらせ、苦しげな息をはいて死んでいった」など、第二水俣病として知られる水銀汚染による中毒症状らしき記述も見られる。第二水俣病は、いわゆる四大公害病の一つだが、その他にも、高度成長の弊害ともいうべき公害が各地で報告され、1970年代初期には、「公害列島」なる言葉が新聞をにぎわした。
 それに対し、公害問題に対する包括的な法律となる公害対策基本法が制定されたのは1967年、公害防止など、環境の保全に関する行政機関として環境庁が設置されたのが71年のことだった。

・このような経過のなかで、公害問題を取り上げた文学も登場した。その先駆的な役割を果たしたのが石牟礼道子の『苦海浄土――わが水俣病』(講談社、1969年)だろう。この作品は、作者が患者たちの声にならない声を受け止め、自身のなかで純化させてつづったことで、比類のない訴求力を持つ作品になった。1974年には、有吉佐和子の『複合汚染』(新潮社、1975年)の新聞連載が始まり、大反響を呼んだ。

<民話ブームとニューエイジブーム>
・本作品巻末の解説で、安藤美紀夫は、「「ご先祖」が、けっして遠い存在ではなく、よく見れば、すぐ近くに生きているという実感も、それ[民話採集の旅:引用者注]をとおして得られたものに相違ない」と述べている。確かに、本作品は随所に民話的な要素がちりばめられていて、民話の強い影響を受けていることがうかがえる。

・民話運動は1952年、木下順二を中心とする文学者や歴史学者が集まって「民話の会」を設立したのが、その始まりといわれる。松谷はごく初期の段階からこの会に関わり、民話の探訪と普及、啓発に努めてきた。彼らの活動は、民主的な歴史観の確立を目指した運動や、高度成長に対して伝統的な価値を再発見しようとした運動などと接点を持ちながら、日本固有の文化を再評価する機運を高めていった。やがてこの運動の影響によって、民話絵本や創作民話の流行などの「民話ブーム」が起きることになる。

<公害と民話の出合い>
・福井県大野郡和泉村に「公害を知らせに来た河童」として知られる民話がある。この村人たちは古くから河童と親しく交流してきたのだが、ある夜、村人たちは河童が悲しい声で「川の水をかえてくれ、川の水をかえてくれ、水がおとろしい、水がおとろしい」「もう住んでおれん」「あの川の水はお前さんらにもようないはずじゃ」と訴えるのを聞いた。だが九頭竜川は何の変わりもなく澄んで流れている。村人たちは相手にしなかったが、ある夜、河童たちは激しい雨のなかをよろよろと山へ立ち去ってしまった。その2年後、村人たちは行政からの知らせで、九頭竜川がカドミウムに汚染されていたことを知る。河童に対して申し訳なく、村人たちが山へ行って呼びかけると、「百年したらもどっていくさかい、それまでに川を綺麗にしておいてくれえ」と返事があったという。

<怪異の仕組み>
・本作品のなかで、主人公の直樹は、怪異に3回遭遇する。1回目は、五百羅漢でコドモセンゾの直七たちに出会ったこと、2回目は、崖から落ちて気を失い、直七に死の国へ連れていってもらったこと、3回目は、百万遍の数珠を回して直七を呼び出したことである。

<五百羅漢での邂逅>
・1回目の怪異は、1月14日の夕方、祖父母の家についてすぐのことだった。五百羅漢へ行こうとして裏山の雪道を歩いていた直樹は、大勢の子どもたちの歓声を聞く。ところが、声は聞こえても姿が見えない。「だれだい、でてこいよ!」と呼びかけると、五百羅漢の岩々が子どもたちの姿に変わり、直樹は直七と言葉を交わす。だが、そこに妹のゆう子がやってきて気を取られ、もう一度振り向いたときには、子どもたちの姿は消えていた。直樹はなぜここでコドモセンゾに会うことがきたのだろうか。

<小正月>
・直樹が直七に出会ったのは、1月14日の夕方ということになっている。14日の日没から15日までを小正月と呼ぶが、五百羅漢での邂逅はまさしく小正月を迎えようとしているときだった。小正月は元旦の大正月に対する言葉で、いまでも各地で粟穂、稗穂、成木責め、鳥追い、もぐら打ち、ドンド焼きなど、主として農耕に関わる予祝儀礼がおこなわれている。この小正月には、異界から何者かが村を訪れるという信仰があったのである。

・来訪神接待の「来訪神」とは、小正月の訪問者と総称されている神霊に扮装した訪れ人のことで、各地各様の呼び方がなされており、名称上、ナマハゲ系、チャセゴ系、カセドリ系、トタタキ系、カユツリ系、トロヘイ系、オイワイソ系、その他(福の神・春駒等)に分けることのできる行事の主人公である。(略)これら来訪神の性格は必ずしも明確にされてはいないが、小正月の代表的な神であることに間違いはない。

・直七たちもコドモセンゾも、まれにしか会えない異界からの来訪者という意味では、来訪神と呼んでいいだろう。五百羅漢での怪異は、小正月という特殊な時間の作用があって起きたのである。

<夢幻能>
・能には現在能と夢幻能があるが、夢幻能では生者と死者との交流が演じられる。例えば、『平家物語』を題材とした作品の多くは、死後も修験道で苦しむ武将が亡霊となって現れ、生前の栄華や死の苦しみを語っていく。
 五百羅漢での邂逅は、こうした夢幻能における生者と死者との交流に通じるものがある。能ではしばしば、亡霊が出現する前触れとして不可解な自然現象が現れ、時空にひずみが生じ、ワキ(死者を弔うべき存在)が死者ゆかりの場所を通りかかることによって、シテ(死者)との交流が引き起こされる。シテは異界からの来訪者なので、時空間を支配する霊力を持っているのである。そこでは、現在から過去へと遡行する時間と、過去から現在へ順行する時間とが融合し、特殊な場が出現する。シテは遺恨を語り、ワキは新たな生を生き直すことができる。

<他界の巡歴>
・二回目の怪異は、直樹が直七と会話した直後、ゆう子を助けようとして岸から落ちたことがきっかけだった。直樹は、気を失って夢と現実の間をさまよう。やがて、鳥追いの列に直七を見つけた直樹は、ルウを捜すために、川向こうの「死の国」へ連れていってもらうことにする。「死の国」では、村に水路を引いた農民、直右衛門夫妻を訪ね、次に猫好きの喜平じい夫妻を訪ねる。直樹は、そこで白い猫に導かれ、思いがけず山のばばさに出会う。山のばばさは、死霊となって登ってきた猫たちに乳を飲ませていた。山のばばさは、死んだものの苦しみを和らげる不思議な力を持った存在である。

<三途の川>
・崖下へ転がり落ちた後、直樹は花が咲き乱れている野原をひとりで歩き、川の向こう岸に、亡くなったはずの父を見つける。直樹が川を渡ろうとすると、父は、渡ってはいけないと叫ぶ、しかし、どうしても行きたくて、流れに一歩踏み込んだその途端、冷たさと痛さで、直樹は正気づく。
 松谷の手になる『現代民話考』(第5巻、立風書房、1986年)の第1章「あの世へ行った話」には、あの世を垣間見た人々の体験談が約260件紹介されている。その多くは、生死の境をさまよった際、三途の川が出現したというもので、向こう岸に知り合いの姿が見えたので渡ろうとすると「渡ってはいけない」と言われ、気がついたら病院のベッドに寝ていた、というような話である。特徴的なのは、川を渡ろうとしたけれども結局渡らなかったということであり、川を渡って向こうの世界へ行って戻ってきたという話は一件もない。
 直樹が見た川も、まさしくこの川だろう。渡ったら最後、二度と戻ってくることはできないはずの川だったのである。

<他界巡り>
・ところが、再び意識が遠のいた直樹は、鳥追いの列に直七を見つけ、川までついていってしまう。そこで直七に頼んで向こう岸へ連れていってもらい、直樹は他界巡りを始める。

・三途の川は、六文銭を支払い、船で渡るものというイメージが一般的だが、かつては生前のおこないに応じて、横、浅瀬、深瀬のいずれかを歩いて渡るものと考えられていた。
 善人は橋を渡るので川の水には濡れないが、やはり死ぬことに変わりはない。すると、川の水に濡れる濡れないは、生死には直接関係ないということになる。直樹の場合は、直七に負ぶってもらうことによって自分の足で渡らなかった。だから、死なないですんだ、ということになるだろう。
 直七という先祖の協力によって、直樹は生きたまま、この世とあの世の境界を超えることができたのである。これによって直樹は、他界巡りが可能になった。

<直七との交霊と空間移動>
・3回目の怪異は、足のけががあらかた治った1月16日の夜更けのことだった。直樹は床に就いたものの寝つかれず、どうしても直七に会いたくなる。彼に言われたとおり百万遍念仏の数珠を回してみると、そこに直七が現れ、雪靴を履かせてくれる。その途端、二人は目もくらむような眩しい雪の上に空間移動するのである。そこは五百羅漢で、直樹はコドモセンゾたちと羽子つきや掛けっこして遊ぶ。帰り道、直樹は亡くなったはずの父にも会い、理不尽なことと戦う覚悟を持つようにと、バトンを託される。この時空を超えた怪異の仕組みは、どのようになっているのだろうか。

<百万遍念仏>
・直樹が感じたのはおそらく、長い年月にわたって数珠に込められた、人々の鎮魂への思いなのだろう。直樹は、いまは亡き村の先祖たちと一緒に数珠を回した。蓄積された祈りが直七に届いたからこそ、直七が迎えにきたと考えるのが妥当ではないだろうか。民族行事、仏教行事としての百万遍には、先祖に呼びかける力が込められていて、直樹はその力によって、直七に会うことができたのである。

<先祖たちの力>
・百万遍の念仏に応じて現れた直七は、直樹に雪靴を履かせてくれた。その途端、二人は五百羅漢に瞬間移動する。これはどう解釈すればいいのだろうか。
 五百羅漢での邂逅が可能だったように、霊は時空を超える力を持っていて、生きた人間の霊体をも連れ出しうるよう設定されているのである。
 なかでも霊的な力が傑出した存在として、山のばばさがいる。

・直七が、「生んで、そだてて、なにもかも土にもどして、またそこから、あたらしいいのちを生みだす」と語っていたとおり、山のばばさに遭遇したとき、ばばさは、公害病で苦しみ喘ぎながら登ってきた猫たちに、乳を飲ませて介抱していた。これは、松谷自身が民話の探訪によって得た胸乳豊かな山姥のイメージとも重なる。

<「祖霊信仰による魂の再生」>
・ここまで考察を進めてくると、「告発の児童文学」という世評とは別に、この作品のもう一つの重要な問題を見て取ることができる。松谷は、「祖霊信仰による魂の再生」というバトンを読者に手渡そうとしていたのではないだろうか。
 現代っ子の直樹は、七谷を訪れるまで「先祖」について真剣に考えたことはなかった。ところが、直樹が先祖の地を訪れたことで、祖霊信仰のスイッチが入ったのである。天真爛漫な彼は、土地のお婆さんの話を真に受けて、阿陀野の山でルウを捜そうとした。そこに出現した直七を兄のように慕い、彼を信じて阿陀野の山を遍歴した。そこで、彼は、先祖たちとの交流を通して、脈々と続く命のつながりを知った。先祖たちの郷土への思いや無念を知り、その苦しみに思いを馳せた。一方、コドモセンゾや山のばばさは、村のために鳥追いをしたり、直樹を助けたりして、子孫でもある村の人々に何らかの浄福をもたらそうとしてきたのである。

・こう考えると、直樹の他界訪問は、あたかも作品舞台のモデルとなった出羽三山を駆け巡る修験者の修行にも似ている。修験者が、なぜ他界に見立てた山を巡るのか、宮家準は次のように述べている。
 このように修験道の峰入修行は基本的にはこの世から一度山中の他界に赴いて修行をして、再度俗なる里の世界に帰るという形式をとっていると捉えることができるのである。そして全体として見た場合は、修験道の他界観におけるこの世と他界の関係の特色は、このようにこの世の人間が他界に赴いて他界の神格の力を得て、この世に帰るということにあるといえよう。

・父から託されたバトンが象徴するように、直樹にとっての「他界の神格の力」は、「現世を生きる勇気」である。阿陀野の公害について知らされなければ、直樹はこれまでどおり、平穏無事な生活を送っていたことだろう。知らなくてもよかった公害の実態と人間のおぞましさを知らされたことで、彼は生きることに疑問を感じてしまった。だが、現世に生き、命のバトンを受け継いでいくべき子孫として、それはどうしても乗り越えなければならない。成長のための試練だったのである。出発の朝から始まった一連の怪異を勘案すれば、この試練は、先祖たちが意図的に用意したものだったのだろう。
 母親が迎えにきて、直樹たちがいよいよ祖父の家を出ようとしたとき、シロが子猫を生んだ。母親は、東京湾が水銀で汚染されていたことを告げ、直樹は、阿陀野で見聞きしたことが夢ではなく真実だったことを知る。この一連の結末は、先祖たちもまた、自己の苦しみを語り、バトンを託したことで、魂の安息を得たことを物語っているといえるだろう。直樹の他界巡りは、生者、死者ともに救われる「魂再生の旅」として提示されたのである。



『河童平成絵巻』
佐々木篤   ピエ・ブックス  2005/10



<かっぱ 〔河童〕>
1.想像上の動物。水陸両性、形は4〜5歳の子供のようで、顔は虎に似、くちばしはとがり、身にうろこや甲羅があり、毛髪は少なく、頭上に凹みがあって、少量の水を容れる。その水のある間は陸上でも力強く、他の動物を水中に引き入れて血を吸う。河郎。河伯(かはく)。河太郎。旅の人。
2.水泳の上手な人
3.頭髪のまんなかを剃り、周りを残したもの。→おかっぱ。
4.見世物などの木戸にいて、観客を呼び込むもの。合羽。
5.(川に舟を浮かべて客を呼ぶところから)江戸の柳原や本所などにいた娼婦。船饅頭(ふなまんじゅう)。
6.(河童の好物であるからという)キュウリの異称。
              『広辞苑』(岩波書店)より

・日本人にもっとも親しまれている妖怪といえば、「鬼」、「河童」、「天狗」の三大妖怪があげられる。その中の「河童」は水辺の妖怪の代表格である。ただ、「河童」は妖怪というよりは未確認生物の先駆けとして、現代でもその実体が信じられるむきがあり、昭和のはじめまでは目撃の報告も数多く存在した。
現代の河童像といえば、童子のような姿、おかっぱの頭髪、頭上の水をためる皿、黄色でまんまるの目、とがった口、犬のような鼻の容姿にはじまる。そして、体は濡れて生臭く、背中には亀のような甲羅を持っていて、手足の指間には水掻きがあり、小さな尻尾があるとされる。また河童は好んで相撲の勝負を挑み、水中に人馬を引き入れて肛門から肝を抜きとるなど、危害がしきりに恐れられたりもした。ただ、逆に人間に捕らえられて詫び証文を書かされた失敗談、秘伝の秘薬を授けたという伝え、田植えの仕事を手伝った、田の水を引いてくれたとかいう恩徳の伝承も数多く存在する。

<河童とは>
・民話とは、口伝えにより、親から子へと語り続ける子供向けのお話です。それは、あるときは娯楽のためのお話であったり、生きてゆくための知恵を、解りやすい話に託しての教育の一環だったりもしました。
そんな民話は、それを語る親や祖父母、あるときは村の長老たち、そんな大人の人生観と、その時代の価値観をも包含した話として語られてきたのです。
よって、時代と共に、また地域により、同一のテーマの話であったとしても、微妙に差異が生まれるのはむしろ当然のことなのです。
江戸時代はもちろん、明治時代に入っても、各地で盛んに民話が語られていました。それが、印刷技術の進歩と普及につれ、しだいに勢いを失っていったのです。子供は、本により学ぶ、そんな時代の流れが生まれたのです。そしてそれは今、テレビ画面やコンピューターモニターを通じての、映像で学ぶ時代へと変わってきているのです。

<河童のルーツ>
・数え切れないほどある日本の妖怪の中で、河童ほど全国的に広まっているキャラクターはあまり例を見受けません。河童がなぜ、これほど広まったかの検証は後に譲るとして、河童伝承のルーツを探ってみたいと思います。
神話の時代、日本書紀には、川の神として「みづち」という名称が見られます。みずちは人にとって、フレンドリーな神ではありません。どちらかというと、陰気な川の淵などに棲みつき、通りかかる人に害を与えたり、川の水を氾濫させ、鎮めるために生贄を要求するなど、悪魔的な妖怪に描かれています。水と川に対する恐れが生み出した神なのでしょう。
仏教の伝来と共に、中国からの書物が輸入され、中国の水の妖怪の伝承が日本に伝わりました。中国には、「水虎(すいこ)」と呼ばれる水の妖怪がいます。幼児くらいの背丈しかなく、背中に甲羅のある妖怪です。西遊記にでてくる紗悟浄は、この水虎をイメージしているのかもしれません。
時代が少し下り、11世紀になると、物語文化の普及と共に、水の妖精の話が見かけられるようになります。「今昔物語」には、寝ている人に悪戯する子供ほどの身長の魔物の話があります。捕らえられると、水を入れた盥を要求し、その水の中に飛び込み逃げる水の妖精の話です。

<河童のいろいろ>
・全国に残る河童の伝承には、いくつかの系列があります。
山や川に棲み、キュウリを好み悪戯が大好き。悪さをし、捕らえられると泣いて許しを請い、許されると、律儀に、人間との約束を守る河童。実に日本的な性格の河童です。民俗学の生みの親、柳田國男氏の「遠野物語」ほか、広く一般的な河童の世界です。
もう一つは、九州に多い中国から移住してきたと伝えられている河童です。
人間に近く、指導者をいただき、社会を構成している河童族ともいえる河童たち。
そして、その状態はわからないものの、不思議な水辺の変事を、河童のしわざに違いないとして伝承している例もあります。

<河童伝承の特異性>
・民話に残る題材は河童だけではありません。道具類が、年月を経て変化する妖怪や狐や狸、兎に鶴などの動物も好んで扱われる題材です。そして、一般的な民話では、その地域特有のストーリーになっていることがむしろ普通なのですが、河童だけは、全国各地に、同じテーマ、同じストーリーの民話が、微妙に趣を違えて存在します。この特異性は重要な意味を持っていると考えています。
かつて、富山の薬売りが全国を廻って商売をしていました。近年になっては、紙風船を配りながら家々を廻っていた。記憶している方も多いと思います。そんな薬売りは、顧客に薬を売りながら、各地で起こったおもしろい話などを話して聞かせていたようです。生まれ育った土地しかしらない普通の庶民にとって、薬売りがもたらす話は、貴重な情報源だったのでしょう。
一枚の木版摺の絵が残っています。各地の河童の姿が描かれた絵なのです。今風に言うと河童のカタログ集なのでしょう。その河童絵と共に、河童の伝承を語って聞かせていたであろうことは容易に想像できます。同じストーリーが、全国に広く伝わっているのは富山の薬売りが、河童伝承を広めたからなのであろうと、私は思っています。



『河童の日本史』
中村禎里  日本エディタースクール 1996/2



<河童の相撲>
・人にたいする河童の攻撃行為には、水中に引きこむ行動のほか、いくつかの特異な方式がみられる。なかでも目立つのは相撲の挑戦である。

・河童の行動の第一段階の終わりごろには、河童の相撲好きは、広く知られていたと思われる。
 従来、河童のこの行動は、水神を祀る神示の相撲に由来すると説かれてきた。もちろんそのような由来を否定することはできない。たとえば、愛媛県の大三島町には、精霊と人の争いを演じる一人相撲が知られているが、河童と相撲を取っているという妄想にとらわれた男は、他人の目には、一人で相撲を取っているように見えるだろう。神事の一人相撲においても、古くは相撲者がトランス状態に陥っていたのかもしれない。奈良県桜井市では、二人の男が田のなかで相撲を取り、泥が多くついたほうを吉と判定する泥んこ相撲の神事がおこなわれている。

・格闘技一般ではなく、新田がいう相撲の意味の二番目の層、すなわち四つに組み合う型を持つ格闘は、河童が人を水際まで運ぶのに適した恰好な手段であった。

・日本以外においても、ヤコブが川を渡ろうとしたとき、水神らしいものが現われ、明け方までヤコブと相撲をとり、ヤコブの股の関節をはずした。『創世記』では、水神はヤコブを祝福してみずから去ることになっているが、より古い話型においては、水中に人を引いたのであろう。またドイツのヴァッサーマンとよばれる男の水精は、女性と手を組みあいダンスを踊ったまま川に入ってしまう。このような他の民族の伝承も、河童の相撲の意味を探る手がかりになる。

・土俵が作られた17世紀末に、人と人の相撲が現行ルールに近づいたことは、人と河童との格闘形式にも影響を及ぼしただろう。この変化は、格闘形式の穏和化でもあった。私見によれば、土俵の出現により規定された相撲の特徴は、追い技、つまり寄り切り・押し出し・突き出し・吊り出し・打棄りなど場外に相手を追い払う技の重視である。

・中世末になって、京都の相撲人集団に地方の相撲人があつまり、また彼らが地方に巡業に出かけるシステムが形成された。さらに近世の後半、安永・天明のころ(1770〜80年代)、吉田家がほぼ全国にわたって相撲様式の決定権を手中に収め、その門下の行司が各地に配置されると、地方のセミプロ力士のあいだにおいても、土俵の採用など江戸相撲に倣った様式がひろまったであろう。
 こうして相撲が、格闘競技としてはきわめて淡白なルールを採用しはじめたことは、河童の行動の第二段階以後における人と河童との相撲にも反映せざるを得ない。いまや河童は、人を痛めつけ、あるいは水中に引く目的でのみ相撲を挑むとはかぎらない。河童が無目的でやたらに相撲を好むようすは、第5章で1800年前後、筑後川流域の河童の相撲について述べる時に、詳しく紹介する。この変化は、河童の凶怪性の衰退とうまく平仄をあわせて進行した。小妖である河童の戦いにふさわしい、穏やかな格闘としての18世紀以後の相撲が、河童の相撲の第4の源泉であった。

・第5に、農民の文化としての相撲が、農民層の共同幻想としての河童の源泉であると考えられるが、この点についても第5章において別に検討したい。
 河童憑きおよび人の女性にたいする河童の姦犯の問題を、相撲とおなじ項で論じるのは場ちがいだと疑われるかも知れない。しかし動物的な妖怪が人を襲うばあい、男性にたいしては外から攻撃し、女性にむかっては内部に入って苦しめるのは、かなり明瞭な傾向である。そして女性に雄性の妖怪が憑くときには、姦犯行為と幻想されやすい。河童をふくめて妖怪は、相手しだいで攻撃方法を自在に変更する。
 河童が「童男と成り人と通ず」という記載が『本草補苴』(神田玄泉、1719年)にすでにみられるが、女性を犯したことを明記する噂話の管見初出は、貝原常春の『朝野雑載』(1734年成立)である。

・たとえば豊後岡のある女性のもとに訪れる河童の姿は、他人には見えない。しかし女性の嘻笑するようすによって、河童の淫行が判明する。この例においては、河童が女性に憑いた事件が、姦犯とみなされた。類似の噂話は少なくない。

・水神でもあるヘビが女性に憑いたと解される事件は、古代以来の文献に数多く見られる。

・河童が、女性に憑きこれを犯すヘビの性行を遺伝したことは疑い得ない。しかし河童が女性を憑き犯す行為は、管見内では河童の行動が第1段階から第2段階に移行するころに始まる。したがって、河童の女性姦犯の習性が、その誕生期にヘビから直接に遺伝されたのか、あるいは河童の評判が世間に喧伝されるようになった段階つまり18世紀に、先祖がえりの現象によって、あらためてヘビの性行を復活させたのか、いずれとも断定できない。ただし管見の外の該当文献がなかったとはいえないし、いわんや口承でそのような噂が語られていなかったと断定することはとてもできない。ただし文献においては、この種の噂話はむしろ18世紀の後半になってから多く現われ、なかでも豊後に集中することは注目される。

・近世中期以後、貨幣経済の浸透、新入村者の出現などにより村落共同体の構造に変化がうまれ、社会的緊張が発生した。それが主因になって憑きもの頻発地帯がいくつか出現した。その一つが豊後であった。この地方でとくに犬神憑きが多い。犬神が直接河童につながるとは思われないが、蔓延する憑きもの俗信に触発されて、河童憑きの事件も惹起されたという可能性は捨てられない。かりにそうだとすると、河童憑きの形成期は、近世中期以後であり、ヘビ憑きの直接遺伝ではないという推定が得られる。けれども豊後以外に、山陰・四国・信州・上州などに、著名な憑きもの地帯が分布しており、これらの地域では近世に河童憑きの噂話がさかんであった証拠は、まったく存在しない。

・逆にその否定に有利な文献を示すことができる。因幡の人、陶山尚迪は『人狐辨惑談』(1818年刊)において、河童憑きを狐憑きと同レベルで扱いながら、「九州河太郎と呼者……九州の俗、此物の人を悩すことを言へば、彼地にはさだめて此者多かるべし。本藩には居ることなし」と論じた。因幡は、人狐およびトウビョウと称する憑きものが多発する地帯であった。したがって憑きものの俗信は、河童憑きの素地にはなり得るだろうが、これにさらに別の要因が加わらなければ、女性にたいする河童の憑き・姦犯の噂話は盛行しなかっただろう。
 九州は、河童噂話一般についても、そのもっとも盛んにおこなわれた地域であった。これが上記の「別の要因」であったかも知れない。

<河童の手切り>
・河童の行動の第3段階で、河童が手を切られ、手接ぎ妙薬の秘伝伝授を条件に、その手を返却してもらうという形式が出現する。これには二つの型があり、そのうち一つは、『博多細見実記』巻14の説話のように、河童が人の尻をなでる型であった。そしてこの型の伝承は、河童よりまえにたぬきを犯人として流布していた。あと一つは、河童がウマを水中に引こうとして、かえって引き上げられ、厩でウマにつかまっているところを発見され、手を切られる型である。『西播怪談実記』巻3の説話はその例であった。

・寛永ごろ(1620〜40年代)に成立したと思われる『小笠原系図』に、つぎの伝説が記されている。
 小笠原清宗が廁に行くと怪物がおり、清宗をさえぎろうとする。そこで清宗は、剣で怪物の手を切りおとした。しばらくして窓のそとに声があり、切られた手の返却を乞う。誰何すると「たぬきです」と答える。「切りおとされた手をどうするのか」とたずねると、たぬきいわく。「われに妙薬あり。もってこれを接ぐ。すなわちこれを得させよ。恩のためその妙薬をあい伝えん」。たぬきは翌日手を接いできて、妙薬の効能を明らかにした。小笠原家伝来の膏薬の由来は、これである。



『河童の文化誌』 平成編
和田寛  岩田書院  2012/2



<平成8年(1996年)>
<河童の同類とされている座敷童子(ざしきわらし)>
・ザシキワラシ(座敷童子)については柳田國男の『遠野物語』によって知られていたところである。

<アメリカのニューメキシコ州の異星人の死体>
・回収された異星人の姿は人間によく似ているが、明らかに地球人ではない。身長1.4メートル、体重18キロ前後、人間の子供のようだが、頭部が非常に大きい。手足は細長く、全体的に華奢。指は4本で親指がなく、水掻きを持っている。目は大きく、少しつり上がっている。耳はあるが、耳たぶがなく、口と鼻は小さくて、ほとんど目立たない。皮膚の色がグレイ(灰色)であるところから、UFO研究家は、この異星人を「グレイ」と呼ぶ。

・異星人グレイと河童を並べてみると、素人目にも、そこには多くの共通点を見出すことができるだろう。

 まず、その身長、どちらも1メートル前後、人間のような格好をしているが、頭部だけがアンバランスなほど大きい。
 大きな目に、耳たぶのない耳、そして、小さな鼻穴と、オリジナルの河童の顔は、そのままグレイの顔である。
 最も注目したいのは、その手である。
先述したようにグレイは河童と同じ鋭い爪、水掻きがある。おまけに指の数が、どちらも4本なのだ!。
 また、グレイの皮膚の色は、一般にグレイだが、ときには緑色をしているという報告もある。
 河童の色は、やはり緑が主体。ただ両生類ゆえに皮膚はアマガエルのように保護色に変化することは十分考えられる。

・これらが、意味することは、ひとつ。アメリカ軍は、組織的にUFO事件を演出している。
 捕獲した河童を異星人として演出しているのだ。



『水木しげる』  妖怪・戦争・そして、人間
河出書房新社  2016/5/26



<妖怪談義――あるいは他界への眼差し(水木しげる 小松和彦>
<妖怪と生活空間>
・(小松)それらはみな、各々の村々で作られてきた妖怪なわけですからね。全国どこでも通用する妖怪というのは、なかなかないわけですよ。河童の場合は、民俗学者がその名前をよく使ったし、江戸時代の知識人などもずいぶん使ったおかげで、地方的な固有の名前のほうは次第に人々に忘れられ、河童という名前のほうが、残ったということでしょうね。

(水木)それと、日本人は河童好きだったと思いますね。それほど河童の話というのは、上手に作られています。中国などでは、そんなに河童は発達していないんですけど。

(小松)なぜ、日本人は河童が好きなんでしょうかね。

(水木)大変ユーモラスなものに仕立てられていますよね。きゅうりが好きだとか茄子が好きだとか、相撲が好きだとかね。

(小松)それに、河童の各々の属性の中に、日本人が日常生活の中で考えている事柄が、非常にたくさん盛り込まれていると思うんですよ。それがやはり人々を魅きつけたんじゃないでしょうかね。河童は近世になって作られた妖怪なわけですけど…………。

<神々と妖怪>
(小松)ところで、日本の民俗社会、歴史社会においては、妖怪の世界と神々の世界とが、対比的に扱われていますね。水木さんが、神ではなく妖怪の世界のほうに魅かれていったのは、どういうことからなんですか。

(水木)私は、神と違って、妖怪の方は自分で感じることができたわけですよ。「真を求め、そのために詩を失う」という言葉がありますが、私はどちらかというと真よりも詩を好むのです。そして20歳ぐらいの時に、柳田國男の『妖怪談義』を読んで、「妖怪名彙」の所に出てくるいろいろな妖怪の名前を見て、アッと思ったんですね。もう非常によく分かったんです。それから鳥山石燕ですね。この二つで非常に自信を得たわけです。

・私の場合、仕事でも何でも、妖怪となると元気が出てきて、もう一生懸命になってしまうんです。従って、資料のほうも妖怪ばかりがやけに増えちゃうわけです。

<<あの世>の世界>
(水木)昔は、お寺なんかに行くと、よく地獄・極楽の絵がありましたね。そのせいか、鬼がいるという印象が強いんです。それと、日本では、お盆の行事などに、やはり“あの世”との関連を感じますね。いろいろなものを船に積んで流すわけですけど、それがどこに行くかというと、十万億土とかいわれるわけでしょう。子供心によく分からないながらも、あの海の先にもう一つの世界があるんだな、と思ったわけです。それからまた、祖先の霊がくるというんで、迎え火とか送り火とかをやりますね。そうすると、我々の目にはみえないけれど、ちゃんときているんだなと思うわけですよ。僕自身は、“あの世”と妖怪との直接の関わりというものを、あまり感じたことはないですけど、日本以外では、あの世から飛来してきた妖怪というのは、結構いるようです。そういう意味では“あの世”に対しては、非常に興味はもっています。

<美とグロテスク>
(小松)昔の人たちは、自然の中に神を見、その自然の一部として人間を見ていたわけですから、人間だって同じような霊をもっていると考えていた。自然も人間も神も、いわば同じ一つの土台の上に乗っていたのですが、それが近代になると、人間だけがその土台から降りてしまったわけです。そして、人間は特別な生き物であるという特権を与えられてしまったわけです。

<「妖怪の棲めない国はダメになる」水木しげる ロング・インタヴュー>
<人間が妖怪をいじめている>
・日本で妖怪が減ったのは、電気のせいです。電気で世の中が明るくなってしまった。妖怪というのは、やっぱり闇夜が必要なんです。

<闇夜が育む妖怪たち>
・水木を運んだのは、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を打ち破った老船「信濃丸」で、彼ら以降、ラバウルに着いた船は一隻もない。すべて撃沈されたため、水木らは永遠に新兵扱いのまま、攻撃の最前線へと送られた。まさに、「死」が必然であった。

・水木サンは生まれた時から、妖怪が好きだった。だから、戦争でニューギニアのほうへ行っても、現地の人たちと妖怪の話を自然にすることができた。

・約3分の2が敵の領土というニューブリテン島で、水木は最も敵に近いココボの陸軍基地に送られた。水木はここでもマイペースを貫いたため、“ビンタの王様”のあだ名がつくほど上官から殴られた。そして、さらに危険な最前線基地トーマからズンゲン、バイエンへと派遣され、バイエンでは到着早々海岸の警備を命じられた。不審番もいつもは上等兵が一番楽な早朝の監視をやり、水木たちは夜中に番をさせられる。ところがその日に限って、上等兵が交代してくれというので、早朝の番に変わった。それが運命の分かれ道だった。

・左腕を負傷し、生命が危ないからと二の腕から麻酔なしで切り取られたのです。でも、そのおかげで傷病兵を集めるナマレという後方の野戦病院に移送されることになりました。
 その時感じたのは、人間が持つ「運命」です。

・トライ族の住民が用いる貨幣は、カナカマネーと呼ばれる貝殻でした。これを丸い大きな輪にし、二つか三つ持てばお金持ち。その貝殻でタバコの葉やパパイヤと交換するんです。

・彼らはあまり働きません。皆、慢性のマラリアにかかっているので、疲れないようにしなければいけない。働き者だとすぐ死んでしまいます。怠け者でないと、生きていけないのです。

 私も慢性のマラリアということで、しょっちゅう身体がだるいとか何とか屁理屈を言って、半年か1年しか軍隊で仕事をしませんでした(笑)。その間、彼らの集落に入り浸っているわけです。そうやって現地の人たちと交流して、バナナなどをたくさん食べていましたから、栄養がついて元気だった。逆に軍隊で真面目に働いていた兵隊は、終戦になってから帰国するまでにバタバタ死にました。水木サンは日本に帰るという時に、向こうの生活が合っているから、そのまま現地除隊させてくれと言った。でも、「日本に帰ってお父さんとお母さんに顔を見せてからにしたらどうだ」と上官に言われ、それもそうだと思って帰国しました。



『水木しげるの妖怪談義』
水木しげる   ソフトガレージ  2000/7/15



<荒俣宏  世界のミステリー遺跡に残る妖怪の痕跡>
<妖怪とは何かっていうと、自分とは何かっていこうことにもなってくるじゃないですか>
(荒俣)でも、妖怪の音はものすごく重要なテーマですからね。柳田國男にしても、妖怪研究というのは音の研究ですから、逆に妖怪の姿の話っていうのは、彼もほとんどやっていませんし。

(荒俣)水木先生は妖怪研究のためにあちこち旅行してらっしゃいますけど、どこへ行ってもお土産は……たまには仮面もあるけれど………CDが多いですものね(笑)。これは、妖怪のイメージである音をいかに身近に考えるかっていう、新しい水木流のスタイルじゃないかと思うんですけど。

・(水木)今までは平田篤胤の説いた死後の世界のような、背後霊だの守護霊だのを落ち着いて考えて、死後も転生して生まれ変わるというから、自分もやがては生まれ変わってなんて、楽しく考えていたんです。けれど、自分とは何かを観察してみると、どうもそういうなまやさしいものじゃないような感じが最近はしてきてね。

<「妖怪変換」みたいな機能が頭のなかにあって、妖怪の音や名前がそのまま絵に変換されちゃう………>
・(水木)というのはね、「私はなぜ妖怪を描くのか」っていうことを考えていたわけですよ。妖怪とは何か、なぜ描くのか、いろいろ前から気づいてはいたんだけど、結局は彼らにこき使われてるというか、もちろん好きでやってるんだけれども、同時に使われてるんです。(笑)そのために私は、土日も休みなしです。

・(水木)そう、死。だから、死をむしろ待ち望んでるような感じがね、ちょっとします。ただ問題は、それほどまでにしてなぜ妖怪に使われなくちゃならなかったのかという思いが私のなかにあったわけです。そこから出発して、自分とは何か、という疑問のほうへ入っていく。

<人間は、人間が思うよりもすごく不思議な存在なんですから>
・(水木)それでね、どうして妖怪を……もうとっくに卒業してもいいはずなのにね……まるで鞭を当てられるようにやってこなければならなかったのか、となる。そうすると、自分は何かという問題が起こってくるんです。

(荒俣)これは恐ろしいことですよ、本当に。そういえばね、僕もずいぶん古い漫画本のコレクターで、昔の本を集めているんですけど、水木さんの本は昔の貸本時代の漫画を、今、お描きになってるものとつなぎ合わせても、そこに流れる迫力とか、あるいは妖怪に対するアプローチの仕方って、まったく変わらないんですよね。

(水木)そうなるとある意味で、そういう宇宙人みたいなやつがいて、私を操っているのかなあ、なんて思ったりもするんです。(笑)
 というのは、やっぱり自分の心のなかにも、こんな苦しいことはやめて、もっと開放された生活をしたらどうかっていうのがいますから。でも、実際はそんな生活にはぜんぜんならないわけです。土曜だろうと日曜だろうと、仕事をする。自分自身で抜けられないから、変だ、変だ、と。だから、妖精とは何かっていうよりも、突き詰めれば自分自身の問題になってしまう。

<神の源っていうのは、やっぱり妖怪だったんじゃないかという感じがするね>
(荒俣)つまり、妖怪になっちゃうんですよ。だからおもしろいなあ、と。最初は神を作るつもりだったのが、やればやるほどね。なんていうのかなあ、神の源っていうのは、やっぱり妖怪だったんじゃないかという感じがするんですね。ふつうの感覚ですと、まあ、柳田國男なんかがいっているし、ヨーロッパでも妖怪研究者はだいたい同じようなことをいっていて、「神が零落したのが妖怪だ。だから妖怪ももともとは神で、妖怪を研究すると神になる。神のほうに近づいてくる」っていうんですよね。でも、どうもそうじゃなくて、妖怪は最初から妖怪で、むしろ逆に、人間が神のルーツを探り出していくと妖怪にぶつかるっていうか、妖怪のほうが先にあったんじゃないか、っていう感じですね、シュヴァルの城を見ていてもわかりますし………それをいったのは、結局、平田篤胤ですよね、日本でいえば。平田篤胤が画期的な妖怪学を作ったのは、「すべてのものは最初は神だった」っていう概念よりもむしろ、「すべてのものは最初から妖怪だった」という、この発想法に近いんじゃないかっていう感じがとてもしました。で、水木さんの場合はどうですか?神と妖怪の関係っていうのを、最初はどういうふうに考えてらっしゃいました?

(水木)私もね、「妖怪とは何か?」っていうようなことから連想していくと、どうしても精霊ということを考えざるをえないようです。

・(水木)それで、「癒し」をしたり、病気を治したりするわけだけど、私はセノイ族のところで病気を治す精霊を呼ぶための音楽というのを聞いてね、「録音しちゃいかん」っていうのを無理に録ってきて、それでいろいろなことがわかったんです。それが実にいい気持ちのする音なんです。木と竹の楽器だけで2時間くらい聞いていると、おかしな気持ちになるわけです。というのは、私自身が木になったり、石になったりすることができる。で、それと同じことがニューギニアに行ったときにもあったんです。

(水木)ええ、精霊っていうのは、ものすごく強大ですね。あの、いろんなことをするっていう意味じゃないですよ。それが、東南アジアにでもどこにでもいてくれるから、人も心地いいんです。それがどうも、実在する神々なんじゃないか、ちゅうことなんです。

(水木)それで私もですねえ(笑)、「鬼叫山の拝殿」(広島県)、あそこへ行ってから、よく縄文人の出る夢を見るんですけど、縄文人たちは非常に不満なんです。彼らは今の神の扱い方に非常に不満を持っているようなんです。1万年か2万年前の、本当の神は失われているわけですよ。どうもその、素朴な音でやってくる精霊、それが神だってことをいいたいらしくてね(笑)。

<「縄文の神を復活させるように」っていう指示がくるんです>
(水木)縄文人は、夢とかなんかで私にしょっちゅう通信をしてくるんです。その、どうも今、日本でいわれているようなものとは、神の本来の姿は違っているような気配なんです。どちらかというと、私が見たような、東南アジアとかニューギニアとかにいた精霊たちが本来の神に近いものらしいんです。それで彼らは、現代のように強大になった神々っていうのを極端に嫌うんです。

<妖怪は、おだやかな精霊信仰に入れっていうことを知らせる存在なのかもしれないですよねえ>
<20世紀は、霊魂の進歩っていうのは一切やっていなかったんですね>

(荒俣)だから、19世紀末ごろにウォーレスとかいろんな人が、人間の霊魂の進歩っていうのは、もう進化論とかそういうものじゃ扱いきれないんで、別のものだっていうヒントをつかんだにもかかわらず、その展開はなかったんですね。

<西洋人にとっての妖精は、圧倒的に人魚>
(荒俣)そうですね。よくいわれるけど、日本の妖怪はほとんどは中国がルーツだっていうことがあるでしょう?それと同じようにヨーロッパの妖怪は、イギリスとフランスなんかは特に接近していて、ベースはほとんどやっぱりケルトが持ってきたんです。

<エジプトは宇宙人が運んできた文化じゃないか>
(シリウス星人)シリウスは全天でもっとも明るく輝く恒星。そのため古代エジプトではナイル河の氾濫を知らせる星として信仰された。そこから、エジプト文明はシリウス星人によってもたらされた、とする説も一部にはある。

<エジプトでは建物を作るという形で精霊と接触する文明ができたんですね>
<魂を飛ばすっていうことが、人類が大飛躍する基本だったのかもしれませんね>
(荒俣)ええ、だから、2万年から1万年前の人々っていうのは、どういう方法でかわからないけれど、精神的には太陽に行ったり月に行ったりっていうのは、自由にやっていたんじゃないですかねえ……。

<憑依霊っていう現象がまさに「人間は我思うゆえに我ありじゃないんだ」という証明になっている>

<人間の脳ではかなりわからん部分が多いってことですねえ>
・(荒俣)その「わからん」という部分というのはほとんど、今お話したような精霊関係につながっているんじゃないんですかね(笑)。

(水木)森のなかに住んでるセノイ族というのはね、文字とかはないけれど、とても快適なんです。争いごともないです。

<精霊と妖怪の関係っていったいどうなんだろう?複雑微妙ですよ>
・結局、それで妖怪に関心のある人が増えて、精霊とか霊に対する関心も増えることを、きっと背後にいる精霊も望んでるのかもわからんのです。

<妖怪城を作るという計画はどうなったんですか?>
・(水木)おっ、『稲生物怪録』!あの、山本五郎左衛門!

・(水木)それでね、山本五郎左衛門の話をするけどね、出口王仁三郎は、書いとるんです、山本のことを。
(荒俣)山本のことを、ええ。
(水木)書きましたねえ。山本は霊界にいるんだって。
(荒俣)ははあ……霊界に………王仁三郎は会ったんですか?
(水木)いや、会ったらしい。
(荒俣)あの『霊界物語』に出てくる……?


(注;出口王仁三郎)大本教のカリスマ的「聖師」。日本の古神道・新宗教に与えた影響は限りなく大きい。

『霊界物語』出口王仁三郎が口述筆記した全81巻からなる神の書。

<●●インターネット情報から●●>

(セノイ族の言葉から)
夢の神秘的な力を信じる人々に、セノイ族における夢の技法について。

1.セノイ(Senoi)族とは。
セノイ族はマレーシアのマレー半島に住む原住民です。人口は約4万9440人(1996年:推定)。マレーシアの山岳地帯のジャングルに住み、バンド単位で生活を送っています。

そんな彼らの最大の特徴は、夢に対する態度なんです。

1)1日の大半は夢の話をしている。

2)村会で夢の討議が行われ、村民全てが自分の見た夢を分かち合い、シンボルや状況の意味を話し合う。日常生活の活動の大半を討議で得た解釈で決定する。

3)夢の討議において、夢内容をポジティブな方向に解釈することで、次にみる夢をコントロールする。

2.セノイの夢理論の紹介者について。
彼らが注目を集めたのは、キルトン・スチュアート(1902−65)による「マラヤの夢理論」(1951)が発表されたことによります。スチュアートは1924−40年にかけて世界中を放浪して、1934年頃マラヤ(現マレーシア)に滞在し、セノイ族の夢の技法の調査をしました。

この「マラヤの夢理論」というのがまたUFOから話が始まるという型破りな物なのですが、この論文の趣旨は、セノイ族が平和な部族なのは、彼らが上記の「夢の技法」を用いているから、ということなんです。

当初、この論文はそれほど注目を集めませんでした。しかし70年代に一躍有名になります。

<●●インターネット情報から●●>

【大紀元日本8月6日】夢を積極的に活用し、自分の感情をコントロールする人々がいる。

マレーシアの高原に住むセノイ族(Senoi)だ。
研究者らの報告によると、セノイ族は夢の中の世界を現実と同じように重要視する。彼らは夢の中で、同じコミュニティーに住む人間と友人になったり、対峙したりしながら様々な経験を重ね、成長していく。

その一方で、彼らは現実世界においては精神的に成熟しており、控えめで自己抑制ができるため、争いはほとんど起こらないという。

1970年代にセノイ族と長期間過ごした心理学者のパトリシア・ガーフィールド氏(Patricia Garfield)は、彼らのユニークな夢の活用法を報告している。ガーフィールド氏によると、毎朝、親たちは子供にどんな夢を見たのかを聞き、彼らの方法で夢を見るようトレーニングをしていく。たとえば、夢の中で友人を作ったり、敵の集団とも仲良くなって助けてあげたり、それができなければ夢の中の友人と協力して敵を倒したりする。

そのほかにも、夢の中を自由に飛び回るなど、明晰夢(夢の中で、自分が夢を見ていると分かっていること)を存分に楽しむ方法を教えるのだ。セノイ族によれば、人間の体にはいくつもの魂が宿っている。主要な魂は額の内側に存在し、その他の小さな魂は瞳孔の中に住む。

この小さな魂が、恍惚とした状態や寝ているときに身体を抜け出し、夢の中で活躍するという。

セノイ族は、夢の中の友人と敵を大切にし、夢の中では積極的に友人を作ろうとする。夢の中で、敵が自分と友人になりたいと申し出るときは、「敵が自分に名前を明かし、自分のために歌を歌ってくれる」という。

もし、夢の中である人物と争いになった場合、夢を見た人は現実世界でそれを解決しようと試みる。

彼は争った人物に夢での出来事を伝え、自分に非があれば、相手に賠償することを申し出る。夢を活用することにより、「神経症や精神病といわれるものは、セノイ族の中には存在しない…。セノイ族は、驚くほど感情的な成熟がみられる」とガーフィールド氏は報告している。

現在、一部の学者はセノイ族の夢の活用法について否定しており、セノイ族自身も、そのようなことは存在しないと主張している。
しかし、多くの人類学者は、セノイ族が非常に警戒心が強く、外国人をあまり受け入れないことを認めている。
そして、セノイ族が彼らの夢の活用法を隠してしまったとも指摘している。



『妖怪になりたい』
水木しげる  河出書房新社  2003/5/20



<近藤勇と国境線>
・調布というところは、百姓の多いところで、僕は常に狭い土地の境界問題で頭をなやまされた。たとえば、右側の百姓は、茶の木から一尺という領有権をゆずらず、建具屋はそんなことおかまいなしに茶の木のあったらしいところに境界線のマークを刻みこんでいるのであった。そして、そのマボロシの茶の木をめぐって、ソ連と中共なみの国境争いを3年ばかりくり返したのである。

・ある夜なぞガタゴト音がするので見ると、その境界線を一尺こちらに穴を掘ってよせていた。僕は、あくる日また穴を掘って一尺むこうにやったが、そんなことを三ヶ月ばかりくり返すうち、五寸のところに自然に境界の石がとまったようだ。

・そのあとは、その境界石のかたむきかげんである。むこうは、気づかぬあいだに1センチばかりこちらにかたむけている。僕も30年も絵をやっていてデッサンには自信がある。すぐ、石のかたむいていることが分かる。まっすぐにやればなんでもないのだが、こちらもむこうもわずか1センチぐらいかたむける。といった生活をしているうちに、今度は、うしろの住人が境界の木より1尺3寸入ったところに壁をするといい出した。
 風呂場の屋根がとれることから問題は重大化し、土地をはかる商売の人を呼んで境界線をつくった。
 そのうち左側の百姓がおどりこんできた。「てぇへんだ、てぇへんだ」というわけ。これは長くなるので省略するが、僕は、この町の人間は、特別に欲が深いのではないかと思うようになった。

<奇妙な興味と仕事との格闘—―紙芝居時代>
・戦後すぐの頃のぼくの精神状態から説明すると、戦争はかなり強烈な印象だったから、ぼくは復員したときも浦島太郎みたいな気持ちだった。そこで「これからの人生は好きなことをやって死のう」と思った。
 好きなことといっても遊びではない。興味があって、しかも生活できるものではなくてはいけない。

・ぼくは武蔵野美術学校に入るのだが、絵かきでは食えないということが分り、2年で中退して神戸で紙芝居かきとなるわけだが、どうして神戸に行ったかというと、神戸に安い売りアパートがあったから。
 10万円だか20万円出すと、あと月賦でいいという、しかも15〜6の部屋があったから、一生寝て暮らすにはもってこいで、わが理想とピッタリだったというわけだ。

<妖怪の巣のような世界――貸本マンガ時代>
<40年をふりかえって>
・まあ、一口でいうと「えらかった」即ち「苦しかった」ということだろうか。もともと漫画は好きでやったことだったが、職業ということになると、趣味と違って「つかれたな、ちょっと休もう」というわけにはいかない。
 〆切というものがあって、建築業者が建物を期日に間にあわせなければいけないように“品物”をその期日に間にあわせなければダメなのだ。そういう意味で好きでやったとはいっても“漫画家”という職業で“生き残る”には、世間の業種でいわれているようなものと同じで、特別の仕事というわけではなかった。
 表面的には自由でのんびりしているようにみえるが、世の中のシステムに組み込まれ、品物を作るように、何十年も漫画を作るということは、いくら好きでも、そんなにラクなものではない。

<言葉の不思議>
・ぼくは、紙芝居、貸本マンガ、雑誌マンガと、毎日机の上の紙と対決する仕事をしていたから、しゃべる言葉なぞはぜんぜん気にしていなかった。
 ところが定年をすぎるような齢になって、言葉の不思議を感ずるようになった。言葉というものは何気なく使ってきたわけだが、これはひとこと多くてもいけないし、少なくてもなおさらいけない。

<運不運>
・昔から同じようにマンガを書いている人でも一方は売れっ子になって巨万の富をきずき、一方はいまだにうだつが上がらず、無名のままでいる。作品のほうでも違っているのかと思うと、それほど大差があるわけではない。
運・不運は人だけではなく、建物なんかにもあるらしい。神田あたりによくうすぎたないビルがあるが、そこへはいると必ず倒産する。僕の友人がそのビルにはいり、自動車のガソリンをつけにしてくれ、といったら断られたという。
「あのビルにはいる人は必ず倒産する」とガソリン・スタンドの男がいったというが、友人はそのとおりになり、3ヵ月で倒産した。

・そのように人間の成功不成功は大いに運、不運が関係する。ツキに見はなされた人はどんなにあがいてもダメだ。立志伝なんかに、ツキを自分で作ったように書いてあるのをよくみるが、それは逆で、運をつけたのではなく、運がついたのだ。

・毎日寝る時、そんなことを考えているのだが、やはり太古の人もソレを感じていたらしく、古代沖縄にセジ、というのがあった。
これは一種の霊力で物についてそのものに霊能を生ぜしめ、人間については霊能を生ぜしめるというが、これは、古代日本のカンナビ(神のいるところ)に移行するのだが、これを運、不運の霊と考えると、前記神田のビルには悪いセジがついており、くだらんマンガを書いて百万の富にありつくのは幸運なセジがついておるのだ。

・だからいくら同じような実力があっても、セジについてもらわんことには、幸運はまいこんでこないのだ。
セジは普通巫女の媒介によって招かれたりしたらしいが、セジ自身の働きによって特定の人、あるいは物体、場所によりつき、そこにとどまることがあるという。

・すなわち、聖なる森、聖なる石、聖なる場所、すなわち、幸運のいる場所なのだ。僕は昔、月島、神戸、西宮、甲子園、亀戸、新宿などをてんてんとしたが、どこも不運だった。
運命の糸にあやつられて調布なる畑の中の安建て売り住宅に、10年前、着のみ着のままでたどりついたのだが。
それから間もなく幸運がやってきた。マンガの注文がくるようになった。

<世の中不思議なことが多すぎて……>
・私は、子供の時に頭の中に入ってきた、カミサマの観念から、いまだに抜け出せないままでいる。
 大人になってから、いろいろな“ヒト”の神様、例えば、菅原道真とか、武将をカミサマにしたものなどは、どうしたわけか、ぜんぜん受け付けない。子供の時、出来上がってしまった、カミサマ観は、アニミズムに近いもので、妖怪とごちゃまぜになったものだった。

・神社には、願いごとをかなえてくれるカミサマがいた(それはどうしたわけか、ひげを沢山生やした男の形だった)。お稲荷さんには、狐とおぼしき神がいた(これは狐の形で頭に入ってしまった)。道端によく、団子なんかがおいてあるのは、“狐落し”のまじないであった。また家から千メートル位はなれた“病院小屋”には幽霊に近いものがおり、その近くをながれる“下の川”には河童がいた。従って、この川には小学校5年生くらいまでは、あまり近よらないようにしていた。

<おばあさんの死んだ日>
・幽霊とか妖怪といったものは、どうしたわけか子供の時に見ることが多い。これはなにか特別な理由があると思うが、いまのところ分からない。
 僕も小学校3年の時、おばあさんが亡くなって2日目に、便所にゆこうとして前をみると、白い着物をきたものがぼんやり立っていたので、あわてて引き返した。その話をすると、父母は、「やっぱり、出たんだ」

・それにしても、奇妙な偶然が、重なりあった出来事の多い日々だった。死後49日、霊魂がとどまるとかいって49日の法事をするならわしがあるが、まんざらいわれのないことでもなさそうだ。

<今も聞こえる兵長の「パパイアはまだか」>
・いまから三十数年前、あのいまわしい戦争のさなか、ぼくは名もない一兵卒として南方の前線、ラバウルに駆り出されていました。
 すでに、終戦の近くになった昭和19年8月の出来事です。暑さと飢えで病人が続出し、兵隊はひとり、ふたりと倒れ、死んでゆきました。

・そう思いながら、壕に行くと、見かけた顔があったんです。ぼくをいじめ目の敵にし、ぼくを憎んでいた兵長でした。下半身に腫れ物が出来、そこが化膿し、異臭が漂ってました。

・「何か欲しいものはありませんか」と言うと兵長は弱々しい声で、「パパイアを食べさせてくれ。俺、パパイアが欲しんだ」
「パパイアなら、2、3日のうちに手に入るので持ってきます」
ぼくはそう言って、兵長と分かれたです。
 それから3日後、パパイアが手に入りました。早く、兵長のところへ持ってゆかないと、と思いましたが、なにしろ空腹で、しかも、ぼくはひとより胃の調子がいいので、つい我慢出来ずに、パパイアを食べてしまったんです。
もの凄くうまかったです。ところが、その翌日の夕方、衛生兵が、「お前の中隊の兵長が死んだ」と言ってきたんです。

・そうこうするうちに、足元にガツンと物が引っ掛かったような強い衝撃を受け、よろっとしました。足元を見ると、屍となった兵長が、「ぼくの足をつかんでいるんです。ギャー。兵長を遠ざけようと、足で押しても兵長はびくともしません。それどころか、兵長はまるで生きているように、ぼくの体にまとわりついてくるんです。兵長の目は開いていたような気がします。口も開いていました。
「パパイアを、どうして持ってこなかった」
「俺はパパイアが欲しいんだ」
と兵長は呻き声をあげるんです。それでも、ぼくはとにかく穴の外に出ようと必死でもがきました。
 あの地獄から、どうやって這い上がってきたのか、いまでもよくわかりません。ただ考えられるのは、死ぬ直前にパパイアを食べたいといった兵長の願いをかなえてやらなかったために、そのうらみで死者に招かれた、ということです。無我夢中で、気づいたときには自分の病室に戻っていました。
いまでも、夏になるとどこからとなく聞こえてきます。
「パパイアをどうしたんだ」

<お化けの話>
<幽霊とチガウ>
・よく幽霊と妖怪――お化け――と混同する人があるが、幽霊というのは、うらみが主な要因となって出てくるおそろしいもので、主として復讐を目的としている。
 ところが、妖怪というのは(水木式の言い方によれば)自然に初めからそこにあるものなので、大した目的もなければ、なんでもない。ただ、奇妙な愛嬌がある。
 それが愛されるといえば、愛されるのだろう。

・2、3年前、東北に「ざしきわらし」の出る家というのがあったが、そこの主人は、それを深く信じて疑わず、むしろ喜んでいた。その古い家のたたずまいといい、いろいろと「ざしきわらし」と同居し、だれがなんといっても、いるという信念を変えない。
 そこの主人のフンイキは、正に「ざしきわらし」そのものだった。
そのように、妖怪とは、奇妙なフンイキをかもし出す形なのだ。
人間の気持ちが形になって出てくるのだ。

<クマントン(座敷童)>
・座敷童(わらし)というのは、明治の初め頃、東北の小学校に現われて、小学1年生の子供と遊んだが、教師とか村会議員なんかには見えなかった。
 即ち、大人には見えなかった。大騒ぎになりかけたが、童の方で遠慮し、2、3日で現われなくなったと、たしか柳田国男の本でみかけたが、どうもぼくは座敷童に縁があるらしい。
 10年前、金田一温泉の緑風荘に出るというので、座敷童の親方みたいなそこの御主人と対談させられたが、主人、曰く
「わたすは1回しかみてないす。とにかくそこの奥の間に寝るとときどき出てきます。戦争中、陸軍中佐が泊ったが、なんとその中佐の前に出てきたのです。中佐はこの部屋になにか仕掛けがあるに違いないと騒ぎ出し、軍務そっちのけで天井裏をさぐったり、床下に寝てみたり」したらしいが、謎はつかめなかったらしい。

・それから、5、6年してやはり東北の百姓家で座敷童が出るというところに行ってみた。いまは空家になっている二階家に時々出て、踊る物音をさせるという。要するにしかと見定めようとすると見えなくなくなるらしい。即ち一種の“霊”なのである。人間はなかなか霊をみることはできないから、一種の存在感みたいなもので感ずるようだ。

・「タイ国にも座敷童がいます」というので、出かけてみた。
タイでは、死体をみんな焼いてしまうらしい。従って、“墓”はきわめて少ない。金持は飛行機で灰になった自分を空からまいてもらうのが夢らしい。そのせいか、やたらに“霊”が空から舞い下りてくるようだ。
“クマントン”と称するタイの座敷童もやはり舞いおりてきて、特定の人につくらしい。

<生まれかわり>
・生まれ変わるといえば、アメリカで「前世療法」という、精神科の医療方法があるという。催眠術で前世にまで記憶を進めて、そこでなにが原因かをみつけてなおすという方法らしいが、やはり前世はあるのかなァ、と思ったりする。インドなどでも生まれかわりの話はよくきく。
 僕は偶然、スリランカの生まれかわりに会う機会にめぐまれた。
 テレビの番組ではあるが、極めてめずらしく、本当の生まれかわりというのはかなり迫力があった。

・日本の平田篤胤の「勝五郎の再生」そっくりの条件だった。
 即ち、生まれかわった家が近い、生まれかわった子供は勝五郎のようにかしこく、よく生前のことを記憶し家族をうながしてそこにゆく、という全く同じようなパターンだった。
 前おきはそれ位にして、ぼくはスリランカのコロンボの近くの村にバスでゆき、その子供の家に行った。
 子供は4歳でかしこく可愛かった。
 両親は40歳位だったが、とても可愛がっていた。
 まず寝言で前世のことをしゃべるので不思議に思ってきくと、そこへ連れて行ってくれといってきかない。

・4キロばかりはなれた生垣の囲まれた前世の生家にゆくと、息子は15年前に死んだという。それも交通事故のようなものだったらしい。ところが不思議にも、その子供が事故の様子をくわしく語るので、生家のじいさんばあさんも不思議に思ったが、まさか15年前の息子が生まれかわってここにいる、とも思えないのでポカンとしていたらしいが、決め手となったのは、誰も知らない(今はそこにいない)はずの長男の名前をいい、とても可愛がられた、といったことらしい。

・僕が行った時も、むこうの老夫婦はみるなりその子供を抱きしめるのだ。生みの親はあまりなつかしがられるのでオロオロした風体であったが、子供はとてもなつがしがるのだ。
 それをみて僕も「フハッ」と驚いてしまった、
「生まれかわり」それはやはり本当にあるのだと思った。
“百聞は一見にしかず”というが、かなりな迫力だった。
やはり生まれかわりというのはあるとしか思えない。

<精霊の呼び声>
・変わり者のM氏は、この12年来、アメリカ・インディアンのホピ族の村で、“精霊生活”にひたりきっている。
 氏は25年くらい前からわが水木プロに出没していた。
 その頃、夢知らせで氏の生活の面倒をみるようにという告知があったが、その頃は、それほどの神秘主義者でもなかったので、その夢を全面的に受け入れるという気持ちにはなれなかったから、夢の2割くらいを(いや、1割くらいだったかもしれない)提供したことがあった。

・氏は20年くらい前、インドに行ってから、“精霊の誘い”みたいなものを受けたとみえて、それ以前も普通ではなかったが、インドに行ってから一線をこえてしまったようだ。帰ってから初めに訪れたのは沖縄だった。
 そこに、なんでも思うことが出来る、という親方を見つけてひどく尊敬していた。「それがボクの理想デス」
「じっとしていて思うことが出来るなら、それはぼくの理想でもありますよ」と、ぼくはいった。

「そうです。親方、いや先生は、世界中に子どもがいるのです」
「というと?」
「カナダに行きたいと思えば、周りがそのようにうごめき、自然にカナダに行けるのです。そこで妻をもらい、子どももいます」
「ほう」

「カナダだけじゃありません。世界中に10人くらい妻がいて、子どもは合計で25人います」
「別に金持ちでもない……」
「そうです。要するに、思えばいいのです。もっともそれまでにはかなりの修行を必要とします」というような話だった。
 その時は、おかしな話だと思っていたが、最近愛読している『シンクロニシティ』という本によると、それはありうるということらしい。

・わけのわからない感動に包まれながら、M氏は「ゼヒ、ヨロク族のマジシャン(呪術者)に会ってほしい」とのことだったので、カナダ近くにヨロク族を訪ねた。
 大自然の森の中に一軒だけ家があり、そこにマジシャンは住んでいた。ぼくは“ビッグフット”、すなわち雪男ともいい、“サスカツチ”ともいう謎の巨人がいるということ、それとマジシャンの家に小人が出るというので、大いに期待していた。
 マジシャンたちは、川で鮭をとり(1年分油につけておく)、顔みたいな大きさのリンゴが簡単にとれるので、それを食べて暮らしているらしい。

・「小人は2階に出る」というので、早速2階に寝た。2、3時間、ランプをつけたまま待ったが、いっこう現れなかった。朝起きてみたら、毛布があらぬ方向にあった。マジシャンに聞くと、「小人が引っ張ったのだ」の一点張り。「いや、ランプがついていたから」というと、「ランプがついてても出ますョ」という。たぶん毛布を引っ張って2、3メートル先に置いたのだろう。しかし、目で見て、写真を撮りたかったのだが、失敗した。
 ビッグフット(雪男)は、大きいし、つかまって食べられでもしたら損だと思ったから、あまり会いたくなかった、なにしろ“人”というものがいない大自然の中だから、ビッグフットが“いる”といっても不思議ではない。

・マジシャンは、ビッグフットの“家族”を見たといっていた。二人の親と子どもで、話し声はしなかった。間もなく消えたと言っていたから、ぼくはある種の“霊”みたいなものではないかと思った。たとえば沖縄の“キジムン”みたいに……。
 しかし、雪男の足跡というのがたくさん石膏で固めてあるのをみると、簡単に“霊”だとも言い切れないと思った。
 マジシャンは、ほかにも妖怪はたくさん来るといっていた。“妖怪”の大半は目に見えないが、ある種の“霊”である。

・というのは、アフリカ、東南アジア、ニューギニア、アイルランドなどを回ってみると、それぞれ名前は違っているけれども、日本と同じ霊が形になっているのに驚く。
 そこでぼくは、世界の妖怪の基本型ともいうべきものは千種でまとまる、形のはっきりしたものはそれぞれの国が350種くらいだということが分かったので、それぞれの国の妖精・妖怪を引っ張りだし、各国のものと比較する本を作って、ぼくの思っていることがどこまで本当か試してみようと思っている。
 見えない世界の人々、すなわち神様とか精霊、妖怪のたぐいは、目に見えないからいあにのではなく、それはいるのだ。ただとらえ方が難しいのだと、ぼくは思っている。

・それで、今回の“精霊の歌”を手に入れたことで、ぼくはとてもM氏を尊敬するようになってしまった、どうも“同族”らしい。……というのは、かの尊敬する沖縄の親方と最近なんだか似てきているみたい……知らない間にぼくは沖縄の親方みたいになっているようだ。………ありがたや、ありがたや、合掌……。



『水木しげるの日本妖怪めぐり』
水木しげる  JTB    2001/8



<目に見えないものと目にみえるもの>
・世の中には目に見えないものと目に見えるものがおり、よく気をつけてみると感じられる。
 感じられるというのは見えないからで…まぁ、妖怪とは感じでつかまえるものなのだろう。この感じは日本よりも外国、例えばニューギニアなどでは非常によく感じられるからおかしなものだ。
 土地の人に聞くと、「そんなバカなこと聞くやつがあるか。そこのジャングルにたくさんいるじゃないか」といったぐあいで、そういう存在は自明の理、すなわちあたりまえのことじゃないか……というわけである。そう、それを感じるのは、ごくあたりまえのことなのだ。

<山に棲む、長い髪を振り乱す老婆>
・実際山の怪というのはとても多い。これは明暦三年(1657年)頃の秋の話である。陸中(今の岩手県)閉伊郡樫内に鷹狩場があり、足軽長十郎という男がそこへ働きに行っていた。その日もいつもと同じく丑の下刻(今の午前2〜3時頃)に家を出て、明け方に九十九折の細道をあがっていた。すると左の山の草木がわさわさと騒ぎ出した。どうも普通の風ではないらしく、やがて山鳴りが響きわたり雷のように激しくなってきた。

・この夜明けに何事だろうと振り返ってみると、そこには背丈七、八尺(210〜240センチ)もある老婆が、腰まである髪を振り乱し、両眼を大きく輝かせていた。そして、老婆とは思えない風のような速さで走ってきたのである。長十郎はもう逃げることもできなかった。(中略)

・これが山に棲む老婆の怪『山婆』で「山姥」ともいわれる。なにしろ背丈がとても大きく、痩せていて、鋭い眼は光り、口は耳まで裂けている。真っ赤とも白髪ともいわれる髪は長く垂らし、ボロを纏っているという。

・山婆は「河童」や「天狗」と同様によく知られている妖怪だ。とにかく恐ろしい感があるが、山婆には目撃談が豊富なため説話もまた様々で、人を襲うものと人に福を授けるものとがあるといわれている。
 山に棲む老婆の妖怪は「山姥」だが、これが少し若い女だと「山女」となり、爺だと「山爺」、若い男だと「山男」、子供だと「山童」と、まるで家族のように世代ごとに存在する。本当に山というのはにぎやかだ。

<ザシキワラシ(座敷童子)  いたずら好きの愛らしい精霊>
・岩手県を中心とする東北地方に出現する『座敷童子』は、3〜4歳、あるいは5〜6歳の子供の姿をした、可愛らしい精霊だ。男の子の場合もあるが、女の子の方が多いという。女の子は美しい黒髪を長く垂らしていたり、おかっぱだったりする。男の子はザンギリ頭で、赤や白の着物を好んで着ているという。

・座敷童子は、その土地に古くからある裕福な家の奥座敷などに棲みつく。童子のいる家は非常に栄えるというから、まるで福の神みたいだ。逆に、童子が出て行くと、その家はあっという間に没落してしまうという。

・また、家の中で座敷童子にばったり出会ったりすると、童子はその家を出て行ってしまうという話もあって、これなどはどう気をつけていても避けようのない、仕方がないことに思えてならない。何故家の者と出会うと、童子は家を出てしまうのだろう。

・一方で座敷童子が学校に棲みついたという話もある。子供と一緒に遊びまわるけれど、大人や年上の子には、その姿は絶対に見えなかったそうだ。

<河童 人間に相撲を挑む水の妖怪の代表>
・全国各地に出没し、誰もが知っているくらい有名な妖怪の一つに、『河童』がいる。河童は主に川や池、沼、湖に棲んでいるが、中には海に棲むものもいるという。

 2〜10歳くらいの子供の形をしており、いちばんの特徴は名前のごとく「おかっぱ頭」と、水をためるためのお皿が頭についているところだろうか。お皿の水は河童にはなくてはならないもので、この皿が乾燥したりすると、身動きが取れなくなってしまう。

・また、背中にカメのような甲羅があるものとないものがおり、口は鳥のように尖っているものが多い。手足の指の間に水かきがついているのも大きな特徴の一つで、このおかげで泳ぎが得意なのだろう。
 河童は自分の力を自慢したがり、人間にちょくちょく相撲を挑んでくる。これにうっかり勝ってしまうと、もう一回、もう一回と、自分が勝つまでせがんでくる。

・時には馬を川へ引きずり込んだりもするが、これは力自慢というよりは、河童が元は中国の馬をつかさどる「猿神」であったからだという説がある。
 中には悪どい河童もいて、人間を水中に引き込み、尻の穴から「尻子玉」を抜く。河童はこの尻子玉が大好物で、食べてしまうのだ。龍王への捧げものにするという人もいるが、どちらにしても、尻子玉を抜かれた人間は死んでしまうのだから、たまったものではない。

<天狗 山から山へ、ひらりと飛んでいく剛の者>
・「天狗」は、「河童」と並んで最も世の人たちに知られた、日本の妖怪の代表的存在だ。そして天狗の伝説・伝承の類は、それこそ日本全国にわたって残されている。
 天狗には数多くの種類がある。中でも有名なのが、京都の鞍馬山に棲む「鞍馬天狗」と、同じく京都の愛宕山に棲む太郎坊という、日本最大の「大天狗」だろう。

・これら大天狗たちは、自分の持つ知恵や技能を鼻にかけ、慢心したため鼻が高くなったことから「鼻高天狗」とも呼ばれている。

・また、するどい口ばしと羽を持ち、空を自由に飛びまわれる「烏天狗」や「木の葉天狗」などの小天狗たち、犬のような口をした「狗賓(ぐひん)」、剣を持って、四肢に蛇を巻きつけた白狐の背に乗った飯綱系の天狗など、枚挙に暇がないほどだ。

・大天狗の最大の武器は、その強大な神通力にある。一本歯の高下駄を履いて山から山へと飛び移ったり、手の羽団扇で大風を起こしたりする。

・また超人的な怪力の持ち主でもあったようで、紀州(今の和歌山県)などには、天狗の怪力を見たいと願った男の頼みを受け、家ばかりか天地山川までをも震動させてみせたというから、スゴイ。

・また、天狗は人間の権力闘争に非常に興味を持っており、劣勢側に味方して戦をわざと混乱させ、楽しむという一面もあるようだ。手裏剣などの様々な武器を作って、忍者たちに伝授したという話も残っている。

・源義経が幼少の頃、鞍馬山で天狗に剣術を学んだという話は有名だが、天狗は武術にも長けていたようだ。天狗には○○坊という名前が多いが、義経と生死を共にした、武蔵坊弁慶などは、父親が天狗だったという伝説もある。どうやら天狗は、日本の歴史に深く関わってきたようだ。

・今でも、高尾山などに行って天狗の像を見ると、いかにも深山にふさわしく、山の精が化して天狗になった気さえする。
 超絶な神通力といい、一種崇高でもあるその存在感は、もう妖怪というより、神に近い感じさえするのである。

<鞍馬寺 牛若丸が夜ごと天狗に武術を習った寺>
・鞍馬山は、愛宕山と並んで、日本で最も多くの天狗が集結する場所として有名。鞍馬山に棲む天狗は「僧正坊」と呼ばれ、日本八天狗の一つに数えられる大天狗である。除魔招福の力に優れていたという。

・『義経記』によると、八歳で鞍馬寺に預けられた牛若丸(後の源義経)に、鞍馬寺の天狗が、あらゆる兵法武術を教えたといわれている。



『あなたもバシャールと交信できる』
坂本政道   ハート出版      2010/12/10



<バシャールとは、どういう存在?>
<惑星エササニの生命体>
・バシャールはエササニという星に住んでいる地球外生命体です。エササニとは、Place of living light (生きている光の池)という意味です。彼らの世界は、喜びと無条件の愛に満ち溢れる世界とのことです。
 そこには彼らは、数億(人)位いて、その総称をバシャールと呼んでいます。ちょうど我々を地球人と呼ぶようなものです。住んでいるのは、恒星ではなく惑星です。

・方向としては地球から見てオリオン座の方向です。もちろん、太陽系外の惑星です。地球から500光年ほどのところにあるShar(シャー)という星の周りを回る第3惑星のことです。

・残念ながら地球からは見えないと言われています。暗すぎて見えないというよりも、我々とは、微妙に次元、あるいは、「密度」が違うためのようです。

・地球は、そして人類は「第3密度」であるのに対して、バシャールとエササニ星の宇宙人は「第4密度」です。

・その惑星から数百人?が宇宙船にのって地球にやってきています。現在、彼らは地球の上空にいて、アメリカ人のダリル・アンカという人を通して、チャネリングをしています。

<グレイの子孫>
・バシャール自体はどういう生命体なのかというと、実はグレイと呼ばれる宇宙人と地球人の間に生まれた混血だということです。では、グレイとはどういう存在なのでしょうか。ご存じの方も多いと思いますが、グレイはアーモンド型の黒い目をしたちっちゃい宇宙人で、悪いイメージがあります。ネガティブなタイプだといわれています。

・ちなみに宇宙人はポジティブなタイプとネガティブなタイプ、それにニュートラルなタイプがいるとのことです。ポジティブなタイプの霊は、プレアデスに住む生命体(プレアデス星人とかプレアデス人)です。アークトゥルスやシリウスの生命体、こと座の生命体の一部もポジティブです。ネガティブなタイプに派、こと座やオリオン、シリウスの生命体の一部がいます。

・バシャールによればグレイというのは、本当は宇宙人じゃなくて、「パラレルワールドの地球に住む人類」です。パラレルワールドでは、この世界と併存する世界のことです。

・そして、時空間を超えてこの地球にやってきて、人類をアブダクション(誘拐)し、受精して、子孫を作りました。それがバシャールだということです。

・ですので、バシャールの先祖というのは、グレイと我々人類ということになります。

<地球のまわりに集まる地球外生命体たち>
・バシャールたちは、今アメリカのセドナという場所の上空にいます。ただし、何度も言いますが、宇宙船自体も第4密度ですので、セドナに行って上空を見上げても通常は見えません。

・このように、いろんな宇宙船がいろんなところにいるわけですが、ほとんどがポジティブ側の宇宙人たちです。ネガティブ側もいますが、比率としては10対1くらいだそうです。

・ポジティブ側は連合を組んでいるようで、ル−ルがあるようです。そのルールというのは、2012年までは地球人類に直接的には干渉しないというものです。



『地球を支配するブルーブラッド 爬虫類人DNAの系譜』
スチュアート・A・スワードロー   徳間書店   2010/6/18



<リゲル  米政府と協定を結んだオリオン連盟リーダー>
・この集団は1954年に米国政府と協定を結び、彼らの技術と科学情報を米国に与えるのと引き換えに、米国民を誘拐する(ただし傷つけない)許可を米国政府から得ている。

・こと座の内戦とそれに続くこと座星系へのりゅう座人の侵略を通じ、彼らの惑星は戦争で痛ましい損害をうけたため、肉体的にも遺伝子的にも弱々しい存在になっている。

・彼らは、りゅう座人のために働いている。りゅう座人が攻略の前準備をできるように侵略予定ルートを偵察する仕事である。

・軍隊型の厳格な階層制の文化を持っている。特にゼータ・レティクリ1と2のグレイが絡む場合はそうである。また肉体から肉体へと魂を移す能力を持っている。

<シリウスA   イスラエル政府と契約の宇宙の商人>
・背の高い細身のシリウスA人は、青と白の長いローブを着ている。両腕を横にまっすぐ広げると、身体全体でアンク(エジプト十字架)の形になる。これが彼らのシンボルである。宇宙の商人であり、技術と情報を売買して、排他的な取り引きルートと特別な優遇を得ている。彼ら自身に向けて使用される恐れのある技術は絶対に提供しない。彼らは、オハル星人に創作されたが、本来の目的を見失っている。

<シリウスB  老子、孔子、釈迦に叡智を与えた銀河の「哲学者」>
・ジャングルか湿地のような惑星の洞窟状空洞や地下で隠遁生活を送っていることが多い。寿命は極めて長い。大半は、家族形態とは無縁である。

<くじら座タウ グレイ種を目の敵にし、ソ連と協定を結んだ>
・この人間のような生物は、グレイ種を目の敵にしている。宇宙のどこであろうとグレイを発見したら叩きのめすと誓っている。

・地球までグレイを追って来た彼らは、1950年代にソ連と協定を結び、基地と自由に領空を飛行する権利を得た。

・最近になって、ロシア人はタウ人との協定を破棄し、同じ協定をリュウ座人の前衛部隊と交わしてタウ人を追い払ったと考えられている。

<ビーガン   シリウスA人の遺伝子から作られたグレイ>
・このグレイ種は、シリウスA人の遺伝子から作られている。シリウス人の船の標準的な乗組員である。主人のために労役、実験、雑用を行う。ゼータ・レティクリ1と2のグレイは、前向きにビーガンの指揮に従い、人間の誘拐や鉱物のサンプル収集などの特定の任務を行う。

<ゼータ・レティクリ1 地球人監視のためリゲル人が作ったグレイ>
・このグレイのエイリアンは、リゲル人が地球の人間を監視するために作った。人間とリゲル人の混合物である。人間の胎児と同じように四本の指と割れたひづめを持つ。ホルモン液と遺伝子実験のために人間を誘拐することで有名である。

・遺伝子的・ホルモン的な欠乏症のため、彼らは、急激に死滅している。他者を誘拐することで、自らの種を救う交配種の原型を作ろうとしている。

<ゼータ・レティクリ2 遺伝子操作で作られたグレイ。爬虫類人に奉仕>
・このグレイは、遺伝子操作で作られた爬虫類人への奉仕階級のメンバーである。完全にマインド・コントロールされており、中央情報(コンピュータ)に接続されている。集団精神で一体となって動く。彼らは、無心になってゼータ・レティクリ1を手伝う。誘拐現場でよく目撃されるが、子供のように純真に行動する。

<アンタレス  トルコ人、ギリシャ人、スペイン人のDNAに>
・極めて知識が高く攻撃的である。

・彼らの社会の最深部まで入り込むことができた者は、ほとんどいない。

・女がいるところが観測されたことはなく、彼らは、同性愛者で、生殖目的でのみ女を使用すると考えられている。ただ、実は、ある母系集団が彼らの背後で権力を握っているとも考えられている。



『オカルトの惑星』 1980年代、もう一つの世界地図 
吉田司雄  青弓社   2009/2/23



<シャンバラへの旅>―80年代の日本の危うい夢(宮坂清)
<アガルタの首都シャンバラ>
<多彩な表象>
・ところが、1970年ごろを境にしてシャンバラやアガルタは表現の素材として広く用いられ、より大きなマーケットに流通するようになる。

・まず、水木しげるは「ビッグコミック」1968年7月1日号(小学館)に『虹の国アガルタ』を掲載した。このタイトルからは、先述のディクホフがアガルタを「虹の都」と呼んでいることが想起される。主人公の青年がチベットを訪れ、アガルタを探し求めたあげく、鏡面に現れる女性に誘われてアガルタに消えるという物語である。アガルタがチベットにあるという点は「正確」だが、鏡面をアガルタへの入口にしている点は、管見ではほかに例がなく、むしろ鏡面を異界への入口とする物語(例えば『鏡の国アリス』)を参照したものとみるのが妥当だろう。 

・また、石森章太郎は1974から75年にかけて「週刊少女コミック」(小学館)に『星の伝説アガルタ』を連載している。この物語ではアガルタは秋田県のピラミッド型の山の地下空間にあり、金星からやって来た「ヘビ族」の子孫が、そこで「星のしずく」の原料となる薬草を栽培している。登場人物にディクホフの名を語らせているほか、ディクホフにならい「金星からやってきたヘビ族」の若者を主人公に据えるなど、内容とも大きな影響が見られる。また、この物語にはチベットとの関連はほとんど見られないものの、地下都市、UFOや宇宙人、ピラミッド、ポルターガイストなど、オカルト的な要素がちりばめられていて、アガルタが、70年代のオカルトブームに多少なりとも取り込まれていたことがわかる。

<チベットに回帰するシャンバラ>
・さて、1980年代を迎えると、シャンバラは新たに表れたオカルト誌「ムー」(学習研究社)によって急速に知られていくことになる。

・「ムー」は1979年11月の創刊号で、すでに「人類最後のロマン 地底世界伝説」(阿基未得)と題した記事を載せ、その冒頭、シャンバラを「地底王国の首都」として取り上げている。この記事は、世界各地の地底世界伝説や地球空洞説を紹介しながら、それらが実在すると主張するものだった。

<精神世界の救世主へ>
・「ムー」のシャンバラ熱の頂点は、1984年11月号の30ページにわたる「総力特集 地底からの救済 シャンバラ大予言」(上坂宏)である。ボリュームもさることながら、注目されるのは、タイトルにも示されているように「救済の予言」がテーマになっている点である。

・これらの記事の影響は、例えば、1988年に 高階良子が少女雑誌「ポニータ」(秋田書店)に連載した漫画『シャンバラ』にみることができる。地上、そして地下のシャンバラという二つの世界があり、シャンバラの光(光の御子)が闇(ジャンザ)と闘い、ジャンザに支配された地上世界を救う「どこも内乱や暴動が起こり危険な状態 ジャンザに操られている この内乱は、やがて世界を巻き込み核戦争へと拡がるでしょう 地上は死滅する それを止められるのはあなただけ」と救済を予言している。

・しかし、いずれにしても、1980年代に至るまではほとんど知られていなかったシャンバラが、数年の間に現代社会の救済者として大々的に語られるようになったことは驚くべきだろう。

・そして、86年にオウム神仙の会(のちのオウム真理教)が「シャンバラ新聞」なる新聞を発行し始めたこと、のちに「日本シャンバラ化計画」を開始したことを考えると、このことが持つ重みはさらに大きなものになるはずである。



『ニッポンの河童の正体』
飯倉義之  新人物往来社    2010/10/13



<宇宙人グレイ説>
・さまざまな河童の正体説の中でも極北に位置するのが、この河童=宇宙人グレイ説である。UFOに乗って地球に飛来し、NASAと取引をしてエリア51に潜んでいるという宇宙人・グレイ。彼らは、1メートル20センチ程度で、メタリックな灰色の肌をし、釣り上がった目と尖った顎が特徴である。彼ら悪の宇宙人グレイこそが太古から日本に出没していた河童であり、河童に尻子玉を取られるとはUFOにさらわれての人体実験、河童駒引とはつまり現在のキャトル・ミューティレーションのことだったのだ、というのがこの説である。

・宇宙人という正体不明の存在を河童という正体不明の存在の正体にするというのは、つまり何も判明していないのと同じだというのがこの説の最大の弱点である。
 宇宙人・グレイと河童の不思議な符合は、人や家畜を害するものに対する想像力のありようは、文化が違ってもどこかで似ることがある、と考えた方が合点がいくのではないか。

・このグレイ説は雑誌『ムー』誌上で人気を博してさらにもう一段階の進歩を遂げ、実は宇宙人だと思われているグレイは地球固有の異次元吸血妖怪で、アメリカ軍はそれを知りつつ本当の宇宙人のカモフラージュに妖怪・グレイを用いているのだとされる。

・世界中でチャパカプラとかスワンプ・モンスターと呼ばれて人や家畜を害しており、さらに彼らはプラズマを操って河童火を燃やす力があり・・・とまあ、八面六臂の大活躍である。この説に従うと、「妖怪だと思われていた河童の正体は、実は宇宙人だと思われていた妖怪である」ということになる。複雑さは増したが、何も言っていないことは同じと言うことになるだろう。

<河童で町おこし><町中の妖怪たち>
・日本では各地域に伝わる妖怪伝承をもとにした町おこしが行われている。近年では、鳥取県境港市の「水木しげるロード」が人気を博している。

<札幌市奥座敷定山渓温泉>
・札幌市奥座敷定山渓には、「かっぱ淵」の伝承がのこされている。ある青年が豊平川で急に何かに引きずり込まれるようにして淵の底に沈み、発見できなかったが、一周忌の夜、父親の夢枕にその青年が立ち、「私は、今、河童と結婚して、妻や子どもと幸せに暮らしていますから安心してください」といって消えたという伝承である。札幌市奥座敷定山渓温泉は、この「かっぱ淵」の伝承をもとに、河童で町おこしを行っている。

<岩手県遠野市>
・岩手県遠野市は、「河童のふるさと」として有名である。遠野市には、柳田国男『遠野物語』に河童の伝承が多くみられるように、河童にまつわる伝承が数多く残されている。

<宮城県加美郡色麻町>
・色麻町には、「おかっぱ様」として有名な磯良神社がある。

<千葉県銚子市>
・銚子市には大新川岸の河童伝承がある。昭和60(1985)年に、「銚子かっぱ村」ができた。

<東京都台東区「かっぱ橋本通り商店街」>
・「かっぱ橋本通り商店街」では、かっぱ像や、かっぱの絵の看板をたくさんみることができる。

<広島県南区段原>
・猿猴川は、猿猴(エンコウ)」という河童の名称がつけられているとおり、河童がいたと言う伝承がある。

<熊本県天草市栖本町>
・ガワッポ(河童)の伝承が残されている。

<福岡県久留米市田主丸町>
・河童の総大将の九千坊が筑後川に棲んでいた伝承がのこされている地域である。

<河童愛好家による全国ネットワーク><河童連邦共和国>
・日本全国で河童の町おこしをしている地域や河童愛好家の人々が集まり、「河童連邦共和国」というネットワークがつくられている。



『1冊で1000冊』  読めるスーパー・ブックガイド
宮崎哲弥    新潮社     2006/11/15




<アドルフの我執――人間ヒトラーの日常を分析する>
・オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督の『ヒトラー〜最後の12日間〜』
が話題になっている。その焦点は、まずヒトラーの人間的側面を照らし出した戦後初のドイツ映画であること。そして、権勢と栄華を極めた第三帝国が地下壕の密室に追い込まれた後の末路が具に描き込まれていること、だ。

・“T・ユンゲ”『私はヒトラーの秘書だった』(草思社)は、映画の原作となった最後の秘書の手記。人間観察が面白い。「愛し合っているなら結ばれるべし」と言い張るヒトラーのせっかちな結婚観を「中産階級的!」と嗤ったりしている。ヒトラーのみならず、取り巻きたちの寸評も秀逸。OLからみた独裁者像という感じ。

・定評があり、入手し易い伝記ならばJ・トーランド『アドルフ・ヒトラー』(全4巻 集英社文庫)がお勧め。初めて「悪魔に人間の顔を与えた」という評言通りの大作。大部過ぎてとても付き合えないという向きには、水木しげるの大傑作『劇画 ヒットラー』(実業之日本社、ちくま文庫)を。考証の正確さも驚くべき水準だが、史実のマンガ化には留まらない。ヒトラーの人間的魅力までも伝える。
 ヒトラーを信念、実行力、理想を兼ね備えた革命家に他ならないとするのは、M・ハウスデン『ヒトラー ある《革命家》の肖像』(三交社)。
E・シャーケ『ヒトラーをめぐる女たち』(TBSブリタニカ)は、ヒトラーを中心とした女性相関図。
 だが、L・マハタン『ヒトラーの秘密の生活』(文藝春秋)は同性愛者説を検証し、肯定的な結論を引き出している。
 精神分析的アプローチといえば、A・ミラー『魂の殺人』(新曜社)が著名だが、ヒトラーという複雑な現象を「幼児虐待のトラウマ話」に縮退させる。ミラーの単調な正義感、非社会性は、むしろナチズムやスターリニズムに一脈通じる。

<アドルフの我執?――今も大衆が好む陰謀論、オカルト……>
・映画『ヒトラー〜最期の12日間〜』のもう一つの原作はJ・フェスト『ヒトラー 最期の12日間』(岩波書店)だ。ヒトラーとその腹心たちの心中には「みずからを神話として、世界の意識の中に刻み込もうとする意図」がみえたという。そうした妄想はやがて、世界観の闘争と現実の戦争との区別を曖昧にしてしまう。

・では、ヒトラーの思想、ナチスの世界観とはどのようなものだったか。A・ヒトラー『わが闘争』(上下 角川文庫)は、その最も重要な手懸り。意外に「読ませる」内容である。
 自意識過剰で、反抗的で、嘘や無知が散見され、陰謀論と偏見に満ちているが、そんな質の書跡なら、いまも書店に平積みになっている。大衆は力への屈服を好み、感情で物事を決するという本書の臆見は結構当たっているかも知れない。

・同書ではワーグナーの楽劇への心酔が吐露されている。J・ケーラー『ワーグナーのヒトラー』(三交社)はワーグナーがヒトラーに与えた影響に関する珍しい研究書。
 ヒトラーとオカルティズムの関わりは「精神世界」や陰謀史観の世界ではあまりにも著名だ。L・ポーウェル、J・ベルジュ『神秘学大全』(学研M文庫)やT・レヴンズクロフト『ロンギヌスの槍』(学研M文庫)がその代表。なかなか巧妙に書かれているので、真に受けずに楽しむべし。

・K・アンダーソン『ヒトラーとオカルト伝説』(荒地出版社)は、正統派史学からは無視され、通俗書の世界では猖獗を極めているヒトラー=オカルティスト説を客観的に検証する。「ヒトラーは極めて実際的な人物」であって、オカルティックなイメージを利用しただけというのが真相らしい。
 そうして捏造された奇怪な妄想体系に対する批判的考察なら、小岸昭『世俗宗教としてのナチズム』(ちくま新書)が優れている。
 各論的だが、藤原辰史『ナチス・ドイツの有機農業』(柏書房)はヒトラーのエコロジズムを詳説。「もったいない運動」の先駆者はナチス!?

<空飛ぶお皿顛末記――UFO論議にやっと決着がついた?!>
・イギリス国防省がUFOの存在を否定する報告書を作成していたことが明るみに出た。4年間の本格的科学調査に基づいて、2000年にまとめられたという。
 実は、こういうレポートは1960年代にもあった。アメリカ空軍がコロラド大学に委嘱して組織されたコンドン委員会によるものだ。

 邦訳のエドワード・U・コンドン監修『未確認飛行物体の科学的研究 コンドン報告 第3巻』(プイツーソリューション)を読むと、かなり精緻で多角的な研究だったことが」わかる。その結論は今回と同じく否定だった。

・ピーター・ブルックスミス『政府ファイルUFO全事件』(並木書房)は、コンドン報告の分析を高く評価している。にも拘わらず「感情的なUFO信者」には「あまりに難解すぎた」のだ。客観的な史料批判に徹した画期的内容。カーティス・ピーブルズ『人類はなぜUFOと遭遇するのか』(文春文庫)と併読すれば、UFO研究史を押さえることができる。

・まともな科学が手を引いた後、新たな神話が蔓延った。例えばオカルト心理学の教祖、ユングはUFOを普遍的無意識の象徴と捉えたが、この考え方はニューエイジ方面で広く受容される。キース・トンプスン『UFO事件の半世紀』(草思社)はユング的視点による総括。
 UFOに誘拐されて、外科的手術や性的虐待などを受けた「記憶」を催眠誘導で甦らせるという大真面目な研究書は、ジョン・E・マック『アブダクション』(ココロ)。例のトラウマ記憶回復運動の一環。著者はハーヴァード大学の精神医学教授。超一流大学の研究者が疑似科学に嵌った典型例だ。
 こうした現象のなかに、「社会の心理学化」の徴を看て取るのは、木原善彦『UFOとポストモダン』(平凡社新書)。UFO神話の文化研究。
 UFO陰謀論もお盛ん。マイケル・バーカン『現代アメリカの陰謀論』(三公社)を。
 それらすべてを笑いのネタにしているのが、山本弘、皆神龍太郎、志水一夫『トンデモUFO入門』(洋泉社)。



『UFOとポストモダン』
(木原善彦)   (平凡社新書)  2006/2/11



<アブダクションとエイリアン>
・ひょっとすると数百万人の人々がアブダクションされ、インプラントされている。

・EBE「地球外生物的存在」は、合衆国政府と秘密協定を交わしている。EBEは自由にミューティレーションとアブダクションを行なうことができ、またニューメキシコ州ダルシーに秘密基地を建造することが許可された。それと引き換えに合衆国政府はハイテク技術と兵器を与えられた。

・EBE「地球外生物的存在」が協定に違反し、使える技術や兵器を合衆国に与えなかった。

・ 1979年、ダルシー基地内の人間を救出しようとして、合衆国の特殊部隊の兵士66人が殺された。(「ダルシーの大虐殺」)

・人類を家畜化しようとするEBEと合衆国政府は、既に戦争状態にある。

・「スター・ウォーズ計画」の通称で知られる戦略防衛構想(SDI)は、ソビエト連邦を仮想敵とするものではなく、実はエイリアンと対決するためのものである。



『あてになる国のつくり方』  フツー人の誇りと責任
井上ひさし、生活者大学校講師陣    光文社    2008/8/7



<近隣との百年戦争>
・もっと根深い話をしましょうか。都会でもそうでしょうが農村では、隣り同士の仲が悪いのです。ま、わが家もそうですね。隣の隣の家とは、利害関係がないから仲がいいのですが、とくに後ろの家とは、親子三代で、もう100年も争っています。発端は、わが家の敷地が、裏の家の土地に三尺ほどはみだしていると向こうが三代にわたって言い続けていることです。私は、絶対うちの言い分が正しいと思っているのですが、どちらも物的証拠がない。後ろの家の言い方はしつこくて、
「お前は立派なことを言ったり書いたりしてるけど、何だ、お前、盗人じゃないか」と、こういう言い方を何度もしてくれるわけです。

・とうとう私は頭にきて、「それならこの土地は俺が買う。坪100万でも買ってやるぞ」と、腹をくくりました。親戚や区長さんに来てもらい、立ち会ってもらって、金で折り合いをつけようとしたのです。ところが、当時まだ生きていた親父が、「絶対そういうことをしちゃいかん」と反対する。なぜか。
「お前がそういうことをすると、前の二代が嘘をついてたことになるじゃないか。自分たちがいっていたことは間違っているから、あいつは金を出したのだ、ということになるから、絶対しちゃいかん」

・たしかにそうです。結局、話をつけるのはやめました。だから、まだまだ喧嘩は続く。うちの息子にも親父の教えを言い伝えていますし、小学校の5年生の孫にもきちんと伝えていますから、争いは100年は続く・・・そういう世界なのです。

・そういう世界に何がグローバリゼーションだと、私は、いつも言っているのです。

<農村原理主義による運命共同体>
・日本の農村はよく、運命共同体だと言われますが、その根っこは、田んぼに使う水にあります。田んぼは自分のもの、つまり私有地、しかし、田んぼに使う水は自分のものではありません。上流から下流へ流れてくるものだし、皆で共同管理しなくてはいけないから、自分勝手なことはできない。流域全体のシステムに従うしかないのです。ですから、個人主義や自我は、稲作をやっている限り絶対に人々の心には育たないのです。

<大農場がつぶれる時代>
・では大農場をもつブラジルの農家がいいかというと一概には言えません。ブラジルは、完全に市場主義が成立していますから、弱肉強食が社会的に容認されています。国も何ら手助けしてくれません。だから大農場でもやっていけない現状が生まれてきます。

・グローバリゼーションの中で、1ヘクタールだろうと1700ヘクタールだろうと農業では食えなくなっている、これが世界の農家の現実です。

<グローバル化に農業の未来はない>
・佐賀県では1800億円あった県下の農業粗生産額がこの間に毎年100億円ずつ減っていきました。
 何度でも、声を大にして言いたい。毎年100億円ずつですよ。

・本当に、農業で食えない状況は深刻です。しかも、高齢化はすすむ一方だ。これは、佐賀県だけでなく、日本国中同じ状態なのです。

・「今、村の人が一番関心を持っているテーマは何ですか?」という質問をぶつけてみると、「若い者は出ていってしまった。残った者は歳取った。さあ、どうするかということだよ」という言葉が返ってきました。
・しかし、私は日本の農業が滅びたって、百姓は困らないとずっと言ってきました。農家は、どんな時代になっても、自分と自分の家族の食べる分だけは作りますからね。他人が食べる分をやめるだけの話です。それで、いいんですよ。結局、日本の農業がなくなって困るのは消費者であるフツー人です。そういう意識も視点もフツー人の間に育っていない。そこが困った問題です。



『荒俣宏の不思議歩記』
荒俣宏   毎日新聞社    2004/11/1



<蜂須賀正氏の有尾人調査>
・平成15年4月13日、東京の立教大学で「蜂須賀正氏(はちすかまさうじ)生誕百年記念シンポジウム」が開かれた。永らく忘れられた人物だったので、まことに喜ぶべき復権である。正氏(1903〜53年)は阿波蜂須賀十八代当主だった一方、鳥類学者として華々しい業績を残した。日本人ばなれした冒険貴族でもあった。

・それで思い出したのが、正氏は昭和3年にフィリピン探検を敢行した際、帝大の松村瞭博士から奇妙な調査を依頼された逸話がある。いわく、「フィリピンのどこかに尾のある人間がいるので、これを研究できたら世界的に珍しい報告になるでしょう」。
 かくて正氏は有尾人発見という無茶なミッションを負って出発した。鳥類採集やアポ山登頂など多くの成果をあげたこの探検にあって、正氏は最初のうち有尾人調査にもずいぶんと力を入れたようである。30年前にフィリピンで撮影された証拠写真を入手していたので、自信もあったようだ。その他、マレー半島、ボルネオ島、ニューギニアでの有尾人情報を手にしていた。

・じつは昭和初期、日本には密かな有尾人ブームが起きていた。端緒となったのは、大正期に開催された大正博覧会、つづいて平和記念博覧会にもお目見えした「南洋館」だった。南洋への関心を高めるべく、見世物に近い物産紹介が行なわれたが、その一部に有尾人まで加えた南方の風俗を含んでいた。数年前にわたしは、平和博のときと思しい南洋館発行の絵ハガキに、「ボルネオ、ダイヤ族有尾人」なる写真を発見して、驚きのあまりのけぞった記憶がある。その解説に、正氏が入手したのと同じような、アジア各地の有尾人目撃情報が載っていた。

・しかし正氏の探検隊は、進展とともに純粋な博物学調査に謀殺されていったし、正氏自身もマラリアに罹って以後は有尾人への関心を弱めた。ただ、日本の一般市民は、みごとなキングズ・イングリッシュを身につけ、狩猟の技にもたけ、自家用飛行機で飛び回る破天荒な正氏を、あいかわらず「怪人」扱いしつづけた。たとえば、昭和14年に小栗虫太郎は『有尾人』と題した秘境冒険小説を発表。正氏が実地調査したアフリカ中央部に有尾人「ドド」を出現させた。正氏は絶滅島ドードーを研究し、「ドド」と表記していたから、モデルは正氏その人と思しい。

<平田篤胤の広い関心>
・平田神社に保存されてきた教材の中に、絵軸がいくつも残っている。どれも、晩年の篤胤が最も力を入れたテーマ「幽冥界」と「神代」を解決するのに用いたものだ。霊界だの神の時代(古)だのは、これを目撃した人がいないわけだから、『古事記』などの古典を講義しても、文章だけではどうしても限界がある。そこで篤胤は「物」を用いることを始めた。江戸後期には考古学も進展し、各地で古物の発掘が盛んになっていた。時代の遺物と考えられるものが、文字も含めて発見されていた。篤胤は実物を示しながら講義し、「神代文字」も実際に使ってみせた。神代のことを実物を介して説明したことで、門人たちの理解は画期的に向上したにちがいない。

・しかし、神代はそれでよいとしても、霊界のほうは「物」で説明できない。なにしろ俗世とは別の空間であるから、幽霊や妖怪を捕えて展示するわけにもいかない。そこで篤胤が編みだしたのは、「絵」つまりビジュアルを活用する方法であった。篤胤は仙境や死後の世界を見て現世に戻ってきた「目撃者」を探し、その人たちから徹底した聞き取り調査を行った。仙境で暮らしたという「天狗小僧」寅吉などは、門人にして十数年にわたり調査を継続している。寅吉が伝える仙境の舞踏については、楽士、舞手の配置、見物人の並び具合、果ては楽譜にあたる音曲の詳細まで聞きだしている。

・これらの情報を絵画化し、ついに「見えない世界」の講義術を確立した。たとえば、仙境に住む「角の生えたイノシシ」を、仙界の住民が鉄砲で狩猟する光景を描いた画軸がある。日本一の鉄砲鍛冶、國友藤兵衛が寅吉に確かめたところ、仙人は空気銃を使うと聞いて仰天した。また、それまでビジュアル化されたことがなかった日本の神々の姿をも、篤胤は絵画化した。「高根様」と称する仙界棟梁の肖像は、まことに迫力に満ちている。記紀に語られる地上最初の陸地「オノゴロ島」を克明に描いた軸もあった。国学の教授法の革命だったと思う。

・篤胤を継いだ二代銕胤は、明治維新のあと大学校の開設を計画する役職に就いた。しかし、島崎藤村の『夜明け前』に見るごとく、絶望してすぐに新政府と距離を置いた。平田学派は幽冥界の主神、大国主命や、南朝の天皇にも敬意を払い、独自の神道思想を深めていた。しかも、その担い手は庶民が主体だった。

<稲亭物怪録を覗く>
・広島県の東側に三次という市がある。全国的には無名に近いが、二つの自慢がある。一つは、『忠臣蔵』の浅野内匠頭に嫁した阿久利姫(のちの瑶泉院)。もう一つは、1カ月間妖怪の来訪を受け続けながら耐え抜いた豪の者、稲生平太郎。2人とも三次の出身者で、郷土の誇りといわれる。わたしは『忠臣蔵』にも心惹かれるが、やはり時節柄、妖怪に食指が動く。

・三次市では稲生平太郎の妖怪話を市興しのテーマに据え、すでに「物怪プロジェクト三次」が進行していた。この平太郎は江戸中期に三次に住んだ実在の武士だ。三次藩はその頃廃藩になったあとで、宗藩の広島浅野家から禄を受けてはいたが、仕事もなくブラブラしていた。16歳の平太郎はある日、江戸帰りの相撲取り三ツ井権八に「三次の侍は意気地がない」となじられたことに反発。肝試しと百物語に挑んだ。

・ところが、これで比熊山から妖怪の一団を呼びこんでしまい、7月1日から1カ月間、毎晩のように妖怪の来訪を受ける結果となった。目玉のついた石、女の生首、割れた頭から出てくる赤んぼう、ぞろぞろはいりこんでくる虚無僧の群、浮きあがる畳、赤い舌でベロベロと舐めまわす大顔、果ては巨大な蜂の巣から黄色い液がボタボタ垂れてくる怪など、ゾッとするような物怪にたたられた。しかし平太郎はついに耐え抜き、妖怪大将を退去させた。この「実話」が広く流布したのは、なんといっても多くの絵巻が制作されたことに拠っている。2002年6月、県立歴史民俗資料館に寄贈された未見の絵巻『稲亭物怪録』があると聞き、ぜひとも見物したくなった。

・最後の場面、妖怪大将が退散する光景では、無数の妖怪どもがツバメのように長い尾を引きながら宙を飛んでいる。今まで見た平太郎の妖怪絵巻のうちでは最も詳しく、他の絵巻では図示されなかったシーンが続出する。

・さあ、エラいことになった。絵巻のタイトルも『稲亭物怪録』とあり、これまで使われてきた題、『稲生物怪録』とも異なる。他にただ一冊、同じタイトルの写本が慶應大学に所蔵されているが、ここに挿入されていた絵とよく一致する絵巻だ。つまり、これは別系統を構成する作品群の一つなのである。稲生平太郎の妖怪話は、江戸時代から、平田篤胤、泉鏡花、折口信夫など多くの人々を魅了してきた。いまだに実話だったのかフィクションだったのか、全貌が明らかにされていない。この新発掘の絵巻が新たな手掛かりとなり、世にも珍しい妖怪実見記の真相が解明されることを祈る。





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